なぜ高い理想を知るほど、人は苦しむのか

 

聖書の「敵を愛せよ」「汝、恐れるな」(360回以上登場するといわれる)といった教えは、人間の本能的な消極性を打ち破る普遍の原則を示しています。

 

どんなにガタガタと揺さぶっても、最後には針がピシッと北を指して止まる方位磁針のように。それは人生の迷いの中でも、進むべき道をスッと指し示してくれる明確な指針です。

 

 

多くの誠実な方々が、この理想の実現を目指して努力されています。

 

しかし、ここに大きな落とし穴があります。

 

高度な教えを単に知識として頭で理解しただけで、心身の準備なく実践しようとすると、かえって「理想と現実の乖離」という深い内的葛藤に直面し、苦しむリスクがあるのです。
この記事では、この「知っているのにできない」煩悶の正体と、それを乗り越えるための心身統一法の(How to do)の体系の可能性について考察します。

 

理性と本能の「相克」——煩悶の構造的原因

 

この苦悩の根っこにあるのは、理性と本能の「相克」という人間の構造的な問題です。

 

人間は知識や教養を高める理性心を持ちますが、この理性心には、不要残留本能(怒り、嫉妬、憎しみ等)から来る感情や衝動を、根本的に統御したり整理したりする力がありません。
理性で制御できない本能心との衝突こそが、人生の煩悶や失望、そして運を落とす原因の大半を占めるとされています。

 

教養が高い人ほど陥りやすい悪循環

 

教養があり、聖句の尊い言葉を知る人ほど、その理想に「添えない自身に嫌悪」し、煩悶し、罪悪感に苦しむ悪循環に陥りやすい傾向があります。

 

知識はついても、体や心のコアを押さえていないため、感情を統御できず、宙に浮いたような状態( むしろ知る以前より酷いと思うような事態 )になってしまうのです。

 

誠実な求道者の告白——佐藤定吉博士の例

 

その典型例として、高度な精神論を追求されたキリスト者・佐藤定吉博士(日本の首相にまで影響を与えた人物)が、長年の信仰歴を経ても直面した葛藤があります。
博士はこう告白しています。

 

( 以下  日本とはどんな国 329–330 ページから引用  )

 

自分を裏切り、自分に悩みと苦痛を与える相手方に対し、いくら聖書に「敵を愛せよ」とあっても、それは出来るものではない。そうありたいとの理性は働いても、実際は、やはり「憎い、打ちのめしてやりたい」というのが、本来の私の実際であった。こうした心は、理性では制御出来るものではないことを、私はつくづくと知った。

 

( ここまで )

 

 

知識(理性)で強制しようとしても、本能的な感情は従わない——この境涯は、志が高いほど、挫折や罪悪感が増すという普遍的な問題を示しています。
皮肉なことに本能的なタイプの方は、そもそも悩みません。

 

歴史が示す実践力の喪失

 

個人の内面的な煩悶に加え、歴史的な歪みも、誠実な求道者を苦しめてきました。
高い理想を持つ宗教的教えが、歴史の中で権力や経済的利益のために利用され、欺瞞的な行為(奴隷貿易など)を許容してきた事実は、教えの実践力の喪失として、さらなる苦悩となります。

 

ウィルバーフォースの孤立

 

イギリス国内で奴隷貿易の廃止を目指したウィルバーフォースらは、キリスト教の「隣人愛」を肌の色や経済的利益を超えて適用しようと苦悩しましたが、当時のイギリス政府や社会(当時のイギリス大手メディア)から激しい反対と嘲笑に直面しました。

 

ウィルバーフォースに反対した政治家、商人、プランター(農園主)のほぼ全員が、公に「キリスト教徒」を自認していました。
それが、彼の苦悩を深くしたとされています。

 

ウィルバーフォースは著書の中で、「現代のイギリスにおける最大の問題は、真のキリスト教と、形だけのキリスト教との混同である」と嘆いています。(引用

 

彼は、本心良心(霊性心)の渙発度合いが高かったせいでしょうか?魂の状態への恐れや、社交界での華やかな時間は無駄だったという後悔が、日記の行間にしばしば埋められています。(引用

 

ガンジーと非暴力の精神

 

キリストが教えた「敵を愛せよ」「非暴力」の精神とは裏腹に、ガンジーの非暴力不服従運動に対して、当時のイギリス政府の方針に迎合した大手メディアの多くが、国家の利益を旗印に運動を嘲笑し、弾圧や投獄を繰り返しました。( ガンジーが10回以上投獄、収監されていたっていう事実は、あとで知り驚きましたけど )

 

本来の霊性心の発露とは異なる、支配欲を搾取に使うという歪みが見て取れるんです。

 

こうした歴史上の巨大な対立も、元を辿れば私たち一人ひとりの心の在り様の集積に他なりません。

 

個人の変容が社会を変える

 

あらゆる社会問題の背後には、私たち一人ひとりの心の在り様が横たわっています。外側の仕組みを変えようと動くことも尊いですが、それと同じくらい、自らの心身を整え、自己を律する力を養うことは、社会を根本から底上げする力になると私は考えます。

 

もっとも、この「個人の変容が社会に及ぼす波及効果」について書き始めると、記事が長くなるため、ここでは一旦脇に置きます。

 

優先したいのは、この記事を読んでいる「あなた」という個人にフォーカスすることです。今の自分を少しでもアップデートし、より納得感のある生活を願う方にとって、具体的に何が突破口になるのでしょうか。

 

理性による強制を越えて——心身統一法という、やわらかな選択肢

 

「変わりたいのに変われない、出口のない閉塞感」

 

「焦りばかりが募り、自分を否定してしまう心の消耗戦」

 

「無力感に苛まれ、同じ場所をぐるぐると回り続ける悪習」

 

このような不毛なループを緩やかに和らげ、自身で納得できる腹落ちした生活を実現するためには感情が生まれてくる根っこ、つまり「心身の土台」を技法によって整えていくこと。
これにより道がようやく見えてきます。

 

天風哲人が教えるのは「できること」だけ

 

ここで心身統一法(道)について、それを体系化した天風哲人の方針を俯瞰してみます。

 

筆者がこの方法を研究して感じたのは、天風哲人は「できること」しか教えていないという点です。
天風哲人の体系は、理論だけでなく、理性では統御できない感情の原因を、潜在意識を含めた心及び体の持ち方、自律神経系統などの側面から多角的に解析し、少しずつ整えて、
少しずつでも生活が好転化する方法を実践体系化しています。

 

霊性心が自然と現れる土台づくり

 

心身の状態を整えることで、理性とは別次元の霊性心が自然と出やすくなります。
佐藤博士の例で言えば、知識で「敵を愛さねば」と強制するのではなく、心身の土台を整えることで、慈悲や寛容が内から,かすかながら生まれやすくなるというプロセスを経ると言えると思います。

 

心の技法を極める——煩悶を減らし、人生の質を高める

 

心身統一法をベースとした実践は、高度な理想を追求する際に発生する内面の弊害やリスクを大幅に軽減すると考えられます。
先の課題についても半年〜1年で手応えを感じられる
しかも、それは30年もかかるような遠い道のりではありません。丁寧に実践すれば、人によっては半年〜1年程度で、心の統御力が高まって、慈悲心も滲み出る手応えを感じられる可能性があります。

 

ただし、これは「怒りがゼロになる」という魔法ではありません。実際、これを書いている筆者自身、未だに修行の身です。

 

ずいぶん以前に、目を覆いたくなるような匿名の中傷メールを受け取った際、慈悲の心など1ミクロンも湧きませんでした。

 

真っ先に込み上げたのは強烈な「怒り」です。

 

 

しかし、ここで心身の技法が活きました。その怒りに翻弄されて自分を傷つけるのではなく、湧き出たエネルギーを「はぁ、なら証明してやるよ!」という闘志へと即座に転換したのです。
その衝動を原動力に変え、無心で取り組んだのが、この記事に、追加で執筆している機械学習への挑戦でした。

 

 

How to say ではなく How to do

 

大切なのは、立派なことを知り単に「言う」(How to say)知識ではなく、実際に「できる」(How to do)ための具体的な心身の技法(スキル)を身につけ、生活を好転させることです。
この具体的な技法こそが、天風哲学の真価であり、真摯に自己と向き合う求道者でない方にも、怒りを遅くできたり、生活や能力向上といった具体的な実益をもたらします。
心身統一法の実践は、筆者のような教会などに所属していない者にも実益をもたらしていると実感しています。

 

まとめ:心身の技法が開く新しい可能性

 

教養を高め、高い理想を知ることは大切です。しかし、それを実践できる心身の土台がなければ、理想に届かない自分をチクチクと責める材料になってしまう——これは本当に皮肉なことです。

 

天風哲人の方法は、「こうあれば良い」という理想論と、「どうすればできるか」という実践論が、ギアのようにガッチリとかみ合っています。

 

この技法を実践することは、自分の中に「 内なる方位磁針 」を育てるようなものかもしれない。

 

日々心身を練り上げれば、たとえ困難にグラグラと揺さぶられても、針がピタッと北を指し示すように、自分自身の中心を見失いにくくなります。

 

こうした心身の技法に習熟することは、悶々とした煩悶を減らし、納得感のある日々を歩んでいくための、確かな道筋となるのではないでしょうか。