感謝行については、私も意志の力を渙発させ1日1分から始めて半年で100万回以上実際にやったことがあるんです。
(もう10年以上前という事になりますけど)
今回は、その際の体験談と考察のページになります。

 

感謝行については、2024年現在において、未だに継続し研究している事の一つです。

 

実践研究しているとはいえ、科学的な再現性や客観性を、この方法に求めるのは、
そもそも無理だろうというのが、今回の記事の結論になってしまいます。

 

感謝行は、実践しても人それぞれ。

 

そうは問屋がおろさないのが悩ましいとこでしょう。

 

 

 

尤も、この感謝行の実践については

 

何を大切にするかという価値観や考え方の違いから
「 オカルトだ!間抜けなことだ!」と言って一笑に付す、
それのみに止まらず小馬鹿にする方も、それなりに多い実態もあります。

 

 

ですので実際にやったことがあることや体験談などを公開するのも案外と勇気が要りますね。

 

 

それに、このサイトに書いているようなことを実践する方は、よほど自己改善に志のある方。

 

あるいは、何らかの事情で、よほど追い込まれ極まって切羽詰まった方で生き方の変更を迫られた方くらいしか、真剣に実践しないだろうし、参考にする方は、ごく一部かもしれないと、ある意味では思っています。

 

それに実践して信じられない様な奇跡的な状況の変化が起こる人というのは、恐らく実践者の2%〜5%未満と私は推定しています。

 

それでも実践を継続し続けて素晴らしいことが日常生活に起こってる方がいることも否定はできません。

 

 

 

病の平癒(寛解)という点でも、がん細胞に、そのまんまの気持ちで「 ありがとう 」と語りかけて

 

手術が出来ない程に進行していた末期のがんが治って生還した体験を持つ方もいらっしゃることも事実のようです。

 

 

( 私は本で知ったのですが・・ )

 

奇跡の生還という体験を持つ方の中でも

 

工藤房美さんという方のエピソードは目を見張るものがありますのでご紹介いたしますが

 

 

工藤さんは48歳で子宮頸がんになり、肺・肝臓・腸骨転移し

 

余命1ヶ月と宣告されたそうです。(手術できないほど進行していたとのこと)

 

 

 

痛みで気絶するほどの壮絶な闘病中に「生命の暗号」という1冊の本を

 

知人から手渡されたと言います。

 

 

工藤さんは、その本を貪るように読み、その本に魂が震えあがるほど感動させられたとか。

 

余命がたとえ1カ月であったとしても
その残り1カ月を目覚めていない95%の細胞が喜び
遺伝子が喜び感動する生き方としての時間を粛々と過ごしたいと発心し

 

すべての臓器に、そして37兆( 著書では60兆 )の細胞群に

 

「ありがとう」「ありがたい」とお礼を言い始めたそうです。

 

 

さらには

 

痛みそのものにも、さらには、抜け続ける髪にも、ありがとうという言葉を語りかけ続けたのだとか。

 

 

そうして標準治療と併せて「 感謝行 」の実践をひたむきに継続していったところ、

 

一時的に良くなったかと思えば悪くなったり・・そういう一進一退を繰り返しつつも・・

 

 

なんと10ヶ月後には末期と宣告されていたガンがすべて消えており
主治医のお医者さんも、その事実に驚愕したそうです。

 

 

 

とは言え、冒頭にも述べたように、この感謝行の実践に科学や再現性を求めるのは、無理があると思っています。

 

なぜなら

 

実践した方々の事実にフォーカスすると人によって個人差が、あまりに著しいことがわかっているからです。

 

そもそも、これを科学で検証すること自体が、無理。再現性の保証もなく非科学でしょう。

 

 

統計的に感謝行の実践を考えても
工藤房美さんのように、生き方の変更を迫られ肉体生命の最大の危機というようなところから
感謝行の積算実践をして、
尋常ではない奇跡ともいえるような結果が出る方は、(A)タイプとして
実践した方のうち2%、多く見積もっても5%未満ではないか?と私は推定しています。

 

工藤さんのケ-スは(A)タイプのなかの、さらに稀な例の特(A)タイプと見ても良いかもしれません。

 

5%未満の素晴らしい結果とまではいかなくとも、
感謝行を実践し奇跡とまではいかないまでも相応の結果が出る方もいます。

 

これを仮に(B)タイプとします。

 

 

そうかと思えば感謝行で病が治る、あるいは状況が変わる事実がある体験を持つ方がいるのを知って

 

標準治療と併せて素直かつ熱心に何万回実践しても病がよくなっていかない。
あるいは状況(境遇)がよくならない。

 

 

とかいう方だって実際に事実( ファクト )として、実際にいらっしゃると思うわけです。

 

これを(C)タイプとしてカテゴライズします。
統計では、こういう(C)タイプの方だって、全くいないわけではないと推測します。

 

 

それ以外にも、「感謝行で病が治る?!!そんな似非科学とかありえない!!」
「もう何言ってるんだ・・」とぶつぶつ文句を言って・・

 

不貞腐れて、こういうのを小馬鹿にし敵意しか持ってなかったような方で、ひねくれてたような方が

 

モチベーションも低く投げやりな気持ちで、それでも実行していったら

 

 

次第次第に有難い感じが盛り上がり高揚してきて
自然治癒力も昂進したせいか長年苦しめられていた痼疾が治ってしまったという
医学的に珍しいことが起こったという事例( ファクト )もあったりなんかします。

 

なお、ここで突っ込んでおきますけど、
そもそも再現性などは全く担保が出来ない・・感謝行は、極めて個人的な内心の問題にかかわることで科学じゃないですので。(-_-;)
似非科学の「似」という漢字も取ったほうがよいでしょう。

 

 

いずれにしろ動機がおかしくて、「こんな非科学を信じる馬鹿がどこにいる・・」というように
不信にまみれ、態度が消極的で不貞腐れたようなやり方でも、ちょっと実践しただけで
実践者の2%未満くらいしか体験できないであろうことが起こったというタイプ・・これを(D)タイプとしておきます。

 

 

 

さらにカテゴライズするなら

 

 

 

そんな似非科学とかありえない!!
と言って先のような方と同じく、そういうのに反感と疑念と不信しか持ってなかったような方で

 

 

全く信じてないという方が

 

こういうの・・( 切羽詰まったりなんかして )ふと、やる気になって、実行したけど・・
感謝行を何万回やっても、全く境遇が好転していかない・・

 

「 やっぱり似非科学だった・・信じた私が馬鹿だった・・くそったれ・・体験者は嘘書いてやがる」。

 

と結論付ける方もいるでしょう。これを(E)タイプとします。

 

 

 

 

以上が慢性的な病や不遇などと感謝行の実践と結果について、ざっくりした分類になります。

 

 

 

経済的な方面で、様々な経緯と動機で、この感謝行を為さった方もいらっしゃって
凄い恩恵を受けた方もいます。

 

例を挙げるなら、ある有名な食品メーカーの奥さんに当たる方がいらっしゃって
夫である社長さんが急死し会社のことを知らない奥さんが夫の経営していた会社を引き継ぐことになってしまったそうです。
ですが、その奥さん・・会社経営なんて、ずぶの素人で、なにもわからない。

 

 

 

だから社員さんと取引先に
「 皆さんのお陰で、この会社は成り立ってます。ありがとう 」
「 ありがとう 」「 ありがとう 」と「 ありがとう 」と
ただ頭を下げ、ニコニコしながら感謝し続けていったら

 

 

 

 

全く商品知識も経営のことも、さっぱりで、未だによくわからないのに
売り上げが3倍になったという話もあります。

 

これは、感謝行を、素直な気持ちで実践して信じられない程の結果が出た
先に分類した(A)タイプの事業バージョンでしょう。

 

 

事業レベルで尋常ではないレベルの実践をし凄い奇跡的な事が起こった方の中では

 

ある菓子食品の製造過程で、商品が出来上がるまでに「ありがとう」を100万回聞かせる

 

という世間的に非合理かつオカルティックなことを製造現場で実際に行っているとこもあるそうです。

 

こういうことを会社( 工場 )レベルで実際に実践をし
ご自身でも世間がドン引きするような、とんでもないレベルの感謝行を実践していたのだとか。

 

これについては私はサイト読者から情報提供として教えてもらったのですが

 

 

これを只管実践し続けた方は日本の上場企業100社以上に個人で大株主になってしまい
日本一の個人投資家で「和製バフェット」「平成の花咲かじいさん」とまで言われるようになったとか。

 

時価116億円もの株式資産を遺した方でもあるって言うんだから驚きますよね。

 

竹田和平さんと言う方です。

 

竹田和平

 

竹田さんは、成功を目指す上で「ありがとう」という感謝の言葉を習慣にすることが近道だとし
毎日3000回「ありがとう」と言うことを実践し続け習慣にしていたそうです。

 

これにより、感謝の心を日常的に意識し続けることができるとして、ありがとうは、ノンリスク・ハイリターンとまで言い切っています。

 

慣れれば、車の運転中などに、一呼吸で60回唱え、それが習慣となっているので、毎日続けると一年間で、ゆうに100万回を超えてたのだとか。

 

 

 

かと思えば

 

 

 

ままならない世の中で仕事も思わしくないので半信半疑で、ふと思い立ち、やる気になって実行したけど・・
何万回やっても、どうにもならない・・

 

境遇が重くのしかかって現実が思考を作って「 信じた私が馬鹿だった・・くそったれ!!」という悲観的な感想を持って不貞腐れる方もいるでしょう。

 

これは、経済的なものを期待して半信半疑で実践して結果が出なかった(E)タイプとしてカテゴライズできます。恐らく、こういう方も統計的に、いないとは断言できないでしょう・・

 

竹田和平さんは1日3000回以上「有難うございます」。という言葉を呟く感謝行で実際に億万長者になっているという。
「それなら私もひょっとしたら1日3000回以上「有難うございます」。という言葉を呟いたら現実の境遇が変わって億万長者になるのでは!と考え、
それを1年間、ひたずら続けて100万回をゆうに越えたとしても
竹田さんみたいに感謝行で実際に億万長者になれなかったという体験を持つ実践者だっているのではないでしょうか?

 

私の実践目的や経緯は後述しますが、少なくとも私の体験でも、100万回をゆうに越える実践をして、私が億万長者になってる現実があるかと言いますと、事実として、そうではありませんから。

 

このようにタイプ分けして感謝行の実践プロセスと実践結果をざっくり分類してみても

 

生き方の変更を迫られ切羽詰まって藁をもすがるような気持ちで命がけというようなやり方の実践をし続けたり
あるいは、素直に実践し続けて尋常ではない素晴らしい結果が出るような事例や程々の結果が出る場合があるかと思えば
やっても自身の願いに沿ったものが得られず当てが外れるというか・・そういう事例もある。

 

不貞腐れたようなやりかたで続けて、驚くような結果が出る場合もあれば、

 

切羽詰まって半信半疑でふとやる気になって、真剣に感謝行を実行しても、どうにもならない・・

 

 

「体験者は嘘ついてやがる・・」と結論付け、不貞腐れ憎しみや恨みを増して生活も荒んでいく方もいるでしょう。

 

 

原因分析をしている方もいまして

 

上手くいかないのは思い込みが弱いからとか・・

 

自覚できる表面意識の心すら届かない深いとこに根深い恨みや憎しみ、不平不満の固着したような根深いしこりがあって

 

かつ命がつながり合ってることを「 (深いとこから)感極まるくらいありがたい 」と感じ入れないからだと理論づけてる方もいますが
むしろ、そういう深い実践が出来る方のほうが稀で珍しいのではないかと私は考えます。

 

それに、そもそも本になったりしてるのは、劇的で珍しいからでしょう。
人々の耳目を引きやすいのは、めったにない事が起こった時でしょう。それが本として出版できる条件になりやすいわけですから。

 

 

 

信じても治らない・・好転しないって方は周りの方が、あまりにもある強い固定観念に囚われていて
感謝行なんかで治って欲しくないと思ってる・・

 

そういうのを強く激しく軽蔑し嫌悪を抱いている人がいて、そういう無理解の雰囲気の満ちた「 場 」だと
見えざる場( 精神的な雰囲気 )の影響を強く受けて上手く行きにくいと理論づけ主張なさる方もいます。
(ある医師の方で、こういう事を研究している方もいて似たことを主張している方もいました。お名前は掲載しませんけど)

 

 

ただ、その根拠づけですらも弱いところがあると思っています。

 

なぜなら

 

 

心底そういうの応援してる方が身近にいてお医者さんの標準治療と併せて
本人も素直に信じて闘病中に熱心に感謝行の実践をして、それでも無理で保険外治療をやっても
一向に回復の兆しも出ず、そのままお亡くなりになる方だっている
というのを実際に聞いてますから。

 

 

ところで

 

冒頭で紹介した余命1カ月の子宮頸がんから生還した工藤さんという方

 

 

私が分類したところでは、工藤さんは、ありがとうを呟く感謝行という方法が

 

バッチリはまった2%未満、否(A)タイプのなかでも、さらに稀なことと観てますが

 

工藤さんの場合「ありがとう」「ありがたい」というお礼を呟くことが100万回を超えた頃に
不思議なことが続出するようになったそうです。

 

 

かく云う私も100万回をゆうに超える´ ありがとう ´という感謝行を実践したことがあるわけです。

 

その体験の範囲から、自身に起こったことの分析と、当時の実践の動機と併せて述べるなら

 

 

私の場合は、工藤さんとはやや趣が異なってて・・
そもそも絶体絶命の大きな病を患ったことが、感謝行の実践のきっかけではありませんでした。

 

( どちらかと言いますと体が強くない部類の人間で今でも、その傾向はあるにはありますが )

 

 

実践の動機や、その経緯はと言いますと・・あの当時を振り返ってみると・・

 

 

自分自身の心内の内面環境において渦巻き行き交う想念の鋳型や意識の流れを観察したところ・・

 

言葉ってのはコミュニケーションのツールとして
使う言葉ってのあるけども

 

待てよ待てよ・・ちょいと待て

 

 

お道具である頭‥心の中をハイウェイのように行き交う想念や意識の流れってのが観察できるけど

 

他人との会話以外に独り言のように、時々、ぶつぶつ、つぶやいたり
自身に語りかけたりする内言語ってやつの意識の流れも第三者的に自らの思考を俯瞰したら自覚できるよね。

 

 

 

ってことは・・

 

 

 

あっ!そうだ!!

 

 

お道具である頭の中で、時々、独り言のように

 

ぶつぶつ、つぶやいたり、自身に語りかける内言語・・

 

これそのものを・・消極的でワクワクさせない、ひねくれたものや意気消沈させる思考パタ-ンを強めるというのは停止させ、弱めて
勇気が出る前向きで積極の言葉を選んで使うようにしたらどうだろう。
口癖も積極的な思考パタ-ンになるよう更改し調整に努めていったらどうなるのだろう??

 

 

そもそも私たちは成人になるまでに

 

「 ダメ 」とか「 どうせ、あなた<わたし>には出来ない 」「 不公平!」「私には無理」
「 最悪 」「最低」「○○が憎い」「○○が妬ましい」「○○は、××だ!誹謗中傷しても構わない」
などという否定的で、ひねくれた言葉や不平不満、愚痴、恨み言などの
積極でない勇気を挫く破滅的言葉を平均14万8千回も耳にし目にして浴びせられて
自分でも口にし、かつ成人以降も、そういう荒んだ場に浸りきって、さらによくない負のスパイラルに嵌りがちと聞く。

 

だったら、そういうマイナス言葉を、呟きそうになったら
「 昔は、こうだったけど 」と間をおいてキャンセル( 中和 )し

 

替わりに感謝と勇気と喜びをベースにした言葉を意思して選択し、出来るだけ積極的な言葉を使うようにしてったら

 

意識っていうか心も創造発展の方向に同調しやすくなって、ちょっとは変わるかも・・

 

 

普段心の中で使う内的言葉を、卑屈で、ひねくれて悲観的、否定的なものから
積極で勇気が出るような言葉を選ぶように少しずつ変えることで、
少しずつ運が拓かれた方がいるというのも小耳に挟んだことがある。

 

例えば長者番付の常連としても有名な斎藤一人さん。

 

私はこの方が「成功の実現」を1000回も読んでいるというのを知る前は、
正直な本音、ほとんど注目もしてなかったわけですけど。

 

この方は、実際、中学校しか出てなくて、
しかも、ご本人の談話によると、ずば抜けた商才があったわけでもないと、ご自身で述懐してる記事(本)を読んだことがある。

 

それなのに結果的に、信じられないようなツキを得て、そうなってしまったのは

 

 

ツキ以外の何ものでもないと断言なさっている。

 

では、なぜツイているのか?というと

 

一人さんの答えはシンプル。笑ってしまったけど。

 

どういうことがあろうと何があろうと「 俺はツイてる 」というのを、どんな事が起ころうが断固として選び口癖にし
それをひたむきに継続していたら、気が付いたら、そうなっていたのだというのも聞いたことがある。

 

一人さんは「幸せだなぁ」とか「ついてる」とか「感謝してます」と言ったプラスの言葉をとにかく暇さえあれば唱えることを日課になさっているとか。

 

 

とは言え、いくら日課にしていても人は、苦しいことや辛いこと、不遇なことがあったら、
愚痴や不満をこぼし、「なんて俺はついてない人間だ・・こんなに頑張ってるのに、なんで報われない・・」と嘆くのが普通、一般でして、
積極的な言葉を呟くというのを実践しているような方でも、大概は、´ 相対ついてる ´の実践者だと思われます。

 

そういう意味で、一人さんの場合は、「絶対ついてる」を貫いているのが常人と違うとこでしょう。

 

これはもう体育会系のごり押し的なやり方です。
心折れない・・本当に信念の人だなと感心しつつも腹を抱えて笑ってしまったけど。

 

 

 

 

あるいは、「心の丈夫なことは、有難うございます」と呟くようになったのがきっかけで人生を切り拓き世界的な偉人になった方もいる。

 

これについては、ある偉大な哲学者の逸話が有名。

 

ドイツ生まれの彼は、生まれつきの背中の障害を抱えてたとか。
背中に団子のような瘤(こぶ)があり、乳と乳の間は約8pしかなかったそう。

 

脈拍は絶えず120〜130。早鐘を打つようなぺ-ス。

 

17歳くらいまで常に喘息で苦しみ、心身ともに大きな困難を抱えていた。

 

そんな不幸な彼に転機が訪れた。

 

 

ここからは、宇野千代著「天風先生座談」から、雰囲気を損ねない形で
一部表現を変え、引用してみます。

 

(以下引用)

 

ある時、町に巡回医師がやってきた。

 

 

少しでも苦しみを和らげられたら、と
馬具作りを生業にしていた父は彼を連れて診せに行った。

 

診てもらってもどうにもならないことは、
彼自身も分かっていた。

 

そんな彼の顔を見ながら、医師は言った。

 

 

「気の毒だな、あなたは。
しかし、気の毒だと思うのは、
 体を見ただけのことだよ。

 

 考えてごらん。
 体はなるほど気の毒だ。
 それは見れば分かる。

 

 だがあなたは、心はどうでもないだろう。
 心までも脊椎の障がいで息が苦しいなら別だが、
 あなたの心はどうでもないだろう。

 

 苦しい辛いと言ったところで、
 この苦しい辛いが治るものじゃない。

 

 あなたが苦しい辛いと言えば、
 おっかさんだっておとっつぁんだって
 やはり苦しい、辛いわね。

 

 言っても言わなくても、何にもならない。
 言えば言うほど、みんなが余計苦しくなるだろ。

 

 苦しい辛いと言うその口で、
 心の丈夫なことを喜びと感謝に考えればいい。

 

 体はともかく、丈夫な心のお陰で
 あなたは死なずに生きているじゃないか。

 

 死なずに生きているのは丈夫な心のお陰なんだから、
 それを喜びと感謝に変えていったらどうだね。

 

そうしてごらん。
 私の言ったことが分かったろ。
 それが分からなければ、あなたの不幸だ。

 

 これだけがあなたを診察した私の、
 あなたに与える診断の言葉だ。

 

 分かったかい。

 

 薬は要りません。

 

 お帰り」

 

 彼は医師に言われた言葉を考えた。

 

「心は患っていない、それを喜びと感謝に変えろ、とあの医師は
言ったが、

 

俺はいままで、 喜んだことも感謝したことも一遍もない。
それを言えというんだから、言ってみよう。

 

親爺が「もう、寝ろ、寝ろ、」と言うと、

 

「心の丈夫なことは、有難うございます。」

 

何をくだらないことを言っているんだ。

 

「いえ、今お医者さんに言われたことを、ここで一生懸命、おさらいをしているんです。」

 

くだらないことを言わないで、早く寝ろ。

 

「くだらなくないよ、お父っつあん。さっき連れて帰ってもらってから今まで、一ぺんも、痛いも苦しいも言わないだろ。」

 

ふん、言わないな。痛くないから、言わないんだと思った。

 

「ただ、医者の顔見ただけで、痛いのが治ると思うかい。

 

痛い、苦しいと考えても治らないことを考えるのはやめるんだ。
とにかく、止めるだけ止めてみろ。
そして有難うござんす、嬉しゅうござんすと一生懸命言うんだよ」

 

と、そう言うから、

 

嬉しい気持ちになるかならないか、わからないよ。

 

でも、そう言っている間、痛い、辛いと言わないだけでも、おっかさん、おとっつあんたちは、心配しないだろ。」

 

ああ、心配しないよ

 

「しなければ、それでいいんだよ」

 

寝て起きて、また明日、医者に言われたことを考えるだけで、喜びと感謝の毎日。

 

そのうち、三日ばかり経つうちに、彼の頭の中にこういうことが閃いた。

 

「人間と言うものは、こういう気持ちでいるだけで、今までとはいくらか違ってきた。

 

苦しい、辛いと言わない。こういう気持ちでいると、当分死なないだろう。死なないけれども、
炉端で、ただそれだけを考えているのでは、死んだのと同じだ。
どうせ三年でも五年でも、死なずに生きているとしたら、心はなんともないんだから、
まず、心と体と、どっちが本当の俺なのか、これを一つ、考えてみよう。」

(ここまで)

 

 

※上記にコメントするなら心も体も、どっちも本当の俺ではないですけど

 

 

 

余談はさておき、この逸話にもあるように

 

 

「心の丈夫なことは、有難うございます。」

 

 

17歳で、不幸のどん底に居た若者で、一般的に、こういう境遇なら境遇(現実)が思考を形成し否定的で悲観的な言葉を使うのが当たり前でしょうけども、

 

この少年は、偉大な事に決して、そういうことをせず、

 

フォ-カスするところを変え前向きで積極的な言葉を使い始めて、それを積極一貫、貫き通したことが未来の局面を変え大哲学者を誕生させるきっかけになったといってもよいかもしれません。

 

 

 

彼の名前は、カント。

 

言わずと知れたドイツ近代哲学の祖と言われる人物。

 

 

こういうエピソ-ドも読んで知っていたのもあったので、、、

 

こういうのがバッチリはまる方は稀有かもしれないが

 

やらない手は無かろう。

 

 

と感じ考えたのが実践する動機だったわけです。

 

尤も、カントという名前を聞いただけで頭が重くなる(痛くなる)という方もいるかもしれない。(-_-;)

 

この方が、ドイツの観念論哲学を体系化する上で中心的な役割を果たしたことで
高校の倫理で頭を抱える生徒や大学生の哲学のレポ−トで難しくて投げ出す学生さんもいるかもしれないけど。

 

 

話を戻して・・

 

私の場合は勢いだけでやったっていうオチがありますけど

 

 

そういう目論見で、

 

 

 

実践当初は1日1分から始めて

 

最初は、タイマーとハンドカウンターで、心内で、ぶつぶつやってたんですが

 

 

次第にペースを上げて1日3分

 

1日5分になって

 

 

 

鉛筆やパソコン・・時計など身の回りのモノや

 

観賞植物・・に、時々、理由を述べながら、すごいね!ありがとうと称賛し褒めるようなことを言ったり

 

 

ペットのインコ( 当時 )などにも、「( 存命当時 )いてくれて、いつもありがとうね!」と呟いたりしていったところ

 

 

やがて1日10分になって

 

 

もうハンドカウンターもタイマーも使わないでよくなり

 

散歩でも心内で呟き清めるようにして1日20分

 

1日単位で大まかな数字として少なめに記録を見積もりつけ

 

それを続けていったら

 

当初の予定では、トータルで1万回程度を予定してたんですが

 

加速がつき気が付いたら約半年間の実践で100万回を超えてました。

 

 

で・・その結果はと言いますと

 

 

これも人それぞれかと思っています。

 

 

と言うのも、 私の場合は10年以上前に100万回を超えた、その当時においても

 

( 工藤さんの本に書かれてるような ) 顕著で際立った不思議なこと、奇跡的な事は続出してませんから。

 

いや、申し訳ない。後学のために、きちんと冷静に書くことを旨としてるので・・

 

 

実際そんな特段の顕著で際立った不思議なことは続出してません。

 

さらに正直申しますと、相当に辛いことだってありました。

 

 

それでもって結局のとこ100万回以上の感謝行をやっても

 

初期目標の一つだった内言語を「 ありがとう 」と言う言霊で清めることで
内言語や自身の意識の流れが、積極に劇的に変わったか?

 

ちょっとは尊い善い心になったか?というと・・

 

主観的に、あんまり、よくわからない・・・というのが正直なとこだったんです。

 

これが100万回以上の感謝行をやった内面における結果です。

 

( なお私のやり方での100万遍の大半は、散歩で歩数のリズムに合わせて機械的に呟いた回数のほうが圧倒的多数です。
これも、結果に影響したのかもしれません )

 

 

 

ただし、振り返ってみると「 ぽつりぽつりと奇妙に有難い 」という事はあった気はします。

 

 

ここからは、非科学的な事に、何とか再現の可能性を上げる試みになりますけど

 

 

 

主観的な体感・・あくまで主観的には

 

 

とにもかくにも自身を、感謝ベ-スにしたくて超高速で唱えることも取り入れたり実践はしていったんですが

 

 

そういうのを心がけていったとて、正直、内面が綺麗になったという自覚は、残念ながら、なかったです。

 

初期目標は達せられなかったということになりますね。

 

では、それをしたことで日常生活で異常な結果が出たかと言いますと、これも、そんなことはありません。

 

 

とは言え、そこまでいかなくっても

 

なぜかわからないけども、あれっ?!という事が、ぼつぼつあったように記憶しています。

 

 

顛末を解説するなら

 

意識を流れる内的独白の形の内言語を清める努力をしていくうちに心がある領域に(深く)入ったせいか??

 

今まで´当たり前´で特に気にもせず目にもくれなかった事柄に対して

 

「 これは素晴らしい、有難い事だ 」と感慨深く感じる機会が妙に増えていったという主観体験があります。

 

 

例えば

 

今まで、ごく当然、当たり前と思ってた「 冷蔵庫 」ですら

 

ひたすら24時間黙々と食べ物を冷やしてくれて

 

役に立ってくれてたんだなぁ・・天晴れ!すごいね!と素直に感じられ

 

電気機器なのに、なぜか、いじらしく愛らしく

 

ノソッとして可愛く感じたりして思わず微笑んでしまうと申しますか・・

 

言葉で説明するのが極めて困難な・・そういう妙な感覚って言いますか

 

ある意味、ある種の方々から「 お前はおかしい‥」と言われるような

 

妙な感慨と申したらよいのか・・

 

 

 

そういう感慨が意識の場の中で深くなった体験があります。

 

 

でもって、そういう「 有難い感じ 」に感じ入る境涯をある一定レベルで持続できて、それが累積できた場合は

 

 

タイムラグを経て

 

・・・・・・ポツンポツン・・・・・ドカーン・・・・・ポツンポツン・・・・・ドカーン
・・・・・・・ポツンポツン・・・・・・ドカーンというパターンで

 

 

小さな感謝が少しずつ増幅され感謝の連鎖を呼ぶという形で
なんだか、間が良くなると言いますか、わけのわからない得体のしれない´些細ないいこと´や
共時性( 偶然の一致 )があった気はしています。

 

 

 

主観的な内面の状態と外界の出来事( 現象 )としての関係としては

 

 

実践のプロセスで先に述べたような

 

 

あれ?少し妙だなという出来事が起きた気がした際は

 

 

 

今まで´当たり前´で気にもせず目にもくれなかった事柄(事象)に対しても

 

「 これは素晴らしい、有難い事だ 」と感慨深く感じられたこと。

 

これが兆しとしてあったというフィ-ドバックは出来る気はします。

 

あまり研究していませんが、このあたりがポイントなのかもしれません。

 

 

そういう有難い感覚( 有難いなぁという絶対的な感じ )が一定期間持続していた気はします。
(あくまで主観の世界ですが)

 

恐らく・・ですが感謝行がうまく機能するには

 

 

素直な気持ちで感謝行をやって集中が深まっていくと、ある深い感覚になっていき

 

そういう感慨が深まって、ある境涯に入ったり出たりすることが頻繁になって

 

 

有難い感じが持続されると何かこれまでと違う奇妙なことが起きる条件の一つが作られるのではないか?と推定しています。
( この境涯に入るまでが、案外一苦労ではないかと思うわけですけど。刹那的で近視眼的な物質的な快楽主義が蔓延してますから )

 

 

そうして、いろんな条件が重なって、その条件が満たされて
感謝行で、深い領域に入る感覚が出て、それが深まって持続していくと・・

 

 

有難いことが発動する条件の一つが作られるのかもしれません。

 

ただし、有難うございますという言葉で内面を浄化できるのか?という点については
先にも言及したように、主観的に、以前と比べて、少しは綺麗になったのか?と問われると
「よくわからない・・」と言う結論になります。

 

 

ということで、´まとめ´になるかわからない´まとめ´として感謝行の見解を述べようと思うわけで

 

感謝行を実践する動機は、人それぞれ様々だと思います。

 

 

それに人生には思うようにならない場面は、起きるものですよね。

 

 

最近では

 

ホ・オポノポノという行法もアメリカなどで流行しているようです。

 

これはハワイ先住民の間で古くから伝わる方法です。

 

個人(家族間)や集団の間の不和や様々な問題を解決に導き
調和を取り戻すことを目的として古くからおこなわれてきたと聞きます。

 

 

内面の変化が外の世界にポジティブな影響を及ぼすという考えから

 

ウニヒピリという潜在意識領の記憶を含めた自らの意識の底にあるものを清めるのに
「 ごめんなさい、許してください、ありがとう、愛しています 」という
四つの台詞を称えることによって

 

個人(家族間)や集団の不和などの問題解消のために実践している方もいると聞きます。

 

ホ・オポノポノの原理は、「自分の現実は自分の創造物である」という考えに基づいているとか。

 

オポノポノも煎じ詰めれば、感謝というのをベ-スにしていると捉えることが出来ます。

 

寝る前に今日1日あったことをクリーニングしてから休んだり、子供に対して何かあった際に、
その子供に対してクリーニングしたいときは、子供が寝ている時間に、「愛しています」とただ心の中でいうというクリーニングも薦められてるようです。(参考サイト

 

ただし、これだって、実践しても、思ったように内面の変化を促進できずに上手くいかない方だっているのではないでしょうか?

 

 

要するに、私の見解は、

 

感謝行を実践して、さほどの結果が出なくても

 

内面の心が、有難い気持ちになりやすいように小さなよいことを探し、
実践で耕す実力を培う。取り組むこと、それ自体。
また潜在意識を含む心を感謝ベ-スに仕向け精神調整することに意義があるのでは?というのが結論になります。

 

 

よって

 

感謝行(褒め行)の実践は、いくら周りに「 オカルトだ!あいつは阿保だ!」と小馬鹿にされても
実行するのは大いに賛成というスタンスです。

 

それに世の中、物質主義や比較主義が蔓延してますから、何もしなかったら、世の中に巻き込まれて心は消極に傾きやすいです。
ですので、大事な心を守るためにも、こういうので、調整したり耕すのもよいのではないでしょうか?

 

ちなみに私は、スピリチュアルに振り切った人間ではありません。(;^_^A
スピリチュアル系に振り切った方は、例えば、こういうゴリゴリの技術系のスキル獲得記事は書かないでしょう。(;^_^A

 

 

( 少し脱線したので記事を戻しますが )

 

 

感謝行(褒め行)の実践で潜在意識に感謝したり精神調整するのは、大いに賛成と結論した理由を述べるなら

 

例えば

 

何らかの生き方の変更を促される逼迫した事態になって
そういうのを契機に感謝行を実践し、これがバッチリはまって
奇跡的な事が身に生じた(A)タイプの方も実際にいらっしゃるでしょうけど

 

そういう方だって

 

生きてたらいろいろあるわけで、、よかったり、よくなかったり、
苦しいことや辛いことだって起きてくるでしょう。

 

なぜなら万象は流転するのは、真理で
生きてたら思うようにならない場面は、起きるものです。

 

 

それに、標準治療などと合わせた感謝行の実践で
奇跡的に、ある病が平癒(寛解)したとしても

 

その後に何らかの病を患ったり老衰をして
人は生まれた以上、必ず肉体機能が停止し100%パ−フェクトリ−に死を迎えるわけで、
これを避けることは出来ません。悟りを開いたとされるお釈迦様だって食あたりで亡くなっています。

 

( こんなこと書いたら達観的過ぎて
身もふたもないと思う方もいるのかもしれないけど・・ )

 

どんな愚者だろうが賢者だろうがアンチエイジングに努めたって、、

 

最後の一息を吐いて肺や心臓、その他の肉体の諸器官が
その神経機能( 肉体機能 )を停止する´死´は
誰であろうと決して回避できませんよね。

 

それを証拠に、私たちの身の回り半径300m圏内にいる方を見渡しても

 

300年前から神経生理機能を動かし肉体機能を保持して
活動し続けてる方なんて存在しないし

 

300年後も、肉体機能を維持して生きてる方なんていないでしょう。

 

尤もインドのヨ-ガ聖者のなかには300歳を超えていたという記録もあり
例外はあるとされていますが・・・

 

また人の寿命だけでなく事業経営だって、得意分野の選択と絞り込みという
選択と集中戦略と感謝行がバッチリはまって、ツキにも恵まれ
時流に乗って奇跡的に盛り返したとしても、

 

時の洗礼を受けて、事象として、やがて衰退していく時期だってあるでしょう。

 

 

 

そうなってくると、よかろうが、よくなかろうが、病が治ろうが、治るまいが

 

ぶつぶつ不満や愚痴を垂れ流し恨んだり憎んだりせず

 

有難い気持ちでおれている丈夫で素敵な心に感謝する。

 

災いや不幸、辛いことも、天(根本主体)の警告として、いったんは感謝で、それでも甘んじて受ける実力をつける。

 

 

そうして

 

「 今日も生きてて有難かった・・有難いなぁ明日もこんな気持ちで・・ 」

 

と過ごすことが出来る・・というのは

 

生きる構えとして達人領域で、そういう物語を紡ぐのは、人として、とても大事だと思うからです。
そして、その実力をつけ潜在意識を含めて精神調整をするのに感謝行は、方法(ル-ト)の一つだと感じ思えるというのも賛成の理由です。

 

 

 

(追記)

 

「 ありがとうございます 」という感謝行で心の振動数を上げ
エネルギ-を落とさないようにする感謝行とその恩恵については

 

未だに謎が多いです。人によって、実践による個人差があり過ぎて客観性も再現性もあったものではありません。
科学的に検証すること自体に無理があります。

 

 

 

ですから、そこはぼやかして最後に感謝行の注意点を述べるなら

 

 

STEP1でも指摘したように、そもそも論として生活が乱れるなどして心の奥座敷( 印象貯蔵庫 )が
始末に負えないくらい意気地なしで負け犬化し消極的要素で一杯になって
パイプが汚れていたら感謝を探す気力もなくなるかもしれません。

 

天風哲人の指摘によると神経系統の調子が崩れて

 

新鮮な印象を感じせしめる感応性能の調子も狂ってしまったら

 

傍から見たら、とても恵まれて成功していると見えるような方でも、

 

当の本人の内面では恵まれてると、全く感じることができなくなってしまうと言われています。

 

上ばかり見て不満、不足の観念に囚われがちになったりするとか。

 

ですから、感じせしめる感応性能の調子を戻すということは、感謝行以前に大事な事と私は思ってます。

 

 

で、これも結局、天風哲人の・・重層的な・・かゆいとこに手を届かせてくれる実践体系に依らないと解決できないとこなんです。

 

これが、感謝行の留意点と言えば留意点になるでしょう。
  ( 結局、心身統一法の実践と並行させたほうがよいかもしれませんよ!ということなんですけど )

 

 

あともう一つの視点が感謝行を実践して、結果が、さほどよくなかろうが

 

人は決して一人では生きられないですよね。生かされている領分のほうが大きいです。

 

よって、お蔭様で有難うと言う言葉そのものが、生かされ生きている、この世界で大事な言葉ではないかと思えるのです。

 

それに、感謝行で、顕著な結果が出たとしても、前述したように、その後もいろいろあるでしょう。

 

よって、潜在意識を含む大事な心を、ありがとうございますという言葉で励まし労ってやる。

 

 

これを続ける(習慣化する)のは、心を勇気づけ監督する意味でも決して悪いことではない・・

 

 

そういうスタンスです。重ねて書いていますけど・・

 

 

( 追記の追記で )

 

「そういう気持ちになれない、そう思えない時は、どうしたらよいでしょうか?」というご質問もありました。

 

そういう気持ちになれない、そう思えない時は、どうしたらよいかと言いますと

 

そう感じ思えるまで「(嘘でも)有難うございます」と言ってみてください。

 

20回でダメなら50回。50回でダメなら100回、有難いという気持ちが出るまで呟くとよいです。

 

今日1日、あるいは1週間で、少しでも有難かったことに意識を向けて
有難い感じが出るまで、「有難うございます」と呟くことを繰り返せばよいです。
簡単な精神調整法になります。

 

 

この分野は小林正観さんが相当に研究してるので、この方の言葉で助言するなら

 

心で思っていなくても苦しいときこそ、心を奮い立たせ前向きにする良い言葉を使うことを意識し

 

( 嘘でも )選んで使うこと

 

これが大事だそうです。

 

 

また、正観さんによると言葉に出すことが大事とのこと。

 

目の前に嫌いな人がいて、心の中では「この人のことが嫌いだ、苦手だ、このやろう」と
心の中では腹の中が煮えくり返っていて、事実、腹の底からそう思っていても

 

「ありがとう」という言葉を口先だけでも言ってみる。

 

 

なぜなら

 

正観さん曰く『口に出した言葉の力』のほうが、

 

心の中で思う(想念)よりも、実生活で、はるかに大きなエネルギーを持っているから・・とのこと。

 

一例を挙げるなら、あなたが「お蕎麦屋さん」に行ったとした場合

 

席に座って

 

「お蕎麦を食べるぞ、お蕎麦を食べるぞ、お蕎麦を食べるぞ…」と心の中で強く強く念じ思い続けても

 

注文を取りにきた店員さんに「ラーメンをください」と口に出して言ってしまったら、

 

その店員さんは、あなたが念じ思っていたお蕎麦ではなく、必ず「ラーメン」を持ってくる。

 

それと同じことなのだとか。

 

 

とりあえず私は、今現在は、竹田和平さんみたいに1日3000回以上とかいう実践はしていませんから念のため。

 

 

1日に10回のときもあれば、20〜30回程度のこともあります。

 

要するに自身の心を赤の他人のように思考観察し、「 なんだか気持ちが落ちたな 」。と感知したら、積極的な言葉を呟き響かせることで気持ちを前向きに調整し、ポジティブなアファメーションに置き換えるトリガ-として用いています。

 

有難うという言葉を呟く感謝行を通じて自身の強みや過去の成功を思い出すトリガ-にすることで、自信を築くことができます。

 

また些細なこと(小さなこと)に感謝する力を培うのにも感謝行を実践しています。

 

易行ですから、やらない手はないでしょう。