心身を整え、人生が変わる――松下幸之助の不眠症を改善した“奇跡の呼吸”と潜在意識クリーニング
志賀一雅さんの『奇跡の呼吸』が一部で話題だと耳にし、半信半疑ながらもパラパラとページをめくってみました。
そしたら、思わぬ名前に思わず目が留まりました。
経営の神様、松下幸之助翁。
私自身、松下幸之助翁の実践や思想を研究するなかで、生命の活かし方の裏側に「強い運を呼び込む心の構えと心身の整え方」という極めて実践的な智慧があったことに着目してきました。
そんな私にとって、志賀氏の呼吸法と松下幸之助翁の名前が一つのエピソードで語られているのを見た瞬間、思わず身を乗り出してしまったというのが、今回の記事執筆の端緒になりました。
著書によると、志賀氏が著書を出版した2022年から遡ること約40年前の1982年ごろに、松下幸之助翁を悩ませていた不眠症を、たった一つのシンプルな呼吸法が改善せしめたというのです。
しかもこの呼吸法は、現代のプロアスリート——例えばソフトバンクの小久保裕紀選手(当時)にもメンタル調整とパフォーマンスの向上に活用された、というから驚きです。
この「奇跡の呼吸」と呼ばれるメソッドは、
寝入りばなに呼吸と共に「よかった」「ありがとう」と心の中で念じるだけの極めてシンプルなもの。
しかし、それが心身に与える影響は、松下幸之助翁の不眠を改善し、トップアスリートのメンタルをも支え、さらには科学的にも脳波に変化をもたらすことが確認されているとか。
なぜ、たったこれだけのことで心が調子よくなっていくのか。
松下幸之助翁の不眠症を改善し、経営判断や人生そのものに大きな影響を与えた「呼吸と観念の力」について、このメソッドを自分なりに少し深掘りしてみたいと思います。
経営の神様を悩ませた「夜」
今から約40年前のこと。(おそらく1982年ごろ)
冬の夕暮れ時、大阪・門真市の松下記念病院の特別室で、松下電器(現 パナソニック )の会社の一部門( 研究所 )で勤務し脳波研究をしていた方( 奇跡の呼吸法の著者 )が松下幸之助翁を、やや緊張しながら待っていました。
当時の松下翁は、会長を退き相談役となってもなお、毎晩のようにグループの事業部長や幹部が経営の難題を持ち込む存在。その叱咤激励は激しく、平日は怒りと緊張の連続だったといいます。
その結果、松下翁は夜ベッドに入ってもなかなか眠れず、不眠症に悩まされていました。
「これでは眠れなくなるのも当然だ」
そう思った志賀氏(著者)は、松下翁の脳波を測定します。
結果は、リラックス時に出るはずのアルファ波がほとんどなく、ストレス状態を示すベータ波ばかり。
「寝る直前にはスローアルファ波が必須ですから、これでは眠れない」と、原因は明らかだと志賀氏は思ったのだとか。
このあとに提案されたのが、「よかった・ありがとう」の呼吸法。
寝床に入って息を吸いながら「よかった」、吐きながら「ありがとう」と心の中で念じる。
たったこれだけの習慣が、松下翁の不眠を見事に改善したそう。
後日、「よく眠れるようになり大変お喜びだ」と伝えられたとき、志賀氏自身も「こんなにシンプルな方法で、本当によくなったのか」と驚いたそうです。
科学が裏付ける“言葉と呼吸”の力
なぜ、この呼吸法がここまで劇的な変化をもたらすのか?
志賀一雅氏は、長年の脳波研究を通じてこの「よかった・ありがとう」呼吸法を科学的に解析しました。
吸う息とともに「よかった」と、そっと念じることで、脳内のA10神経が活性化し、ドーパミンが分泌されて積極的な感情が生まれる。
吐く息で「ありがとう」と、そっと念じると、今度はA9神経が働き、心が落ち着きリラックスする。
このシンプルな言葉の繰り返しが、脳波をリラックス状態——特に「7.8ヘルツ」のスローアルファ波へと導いてくれるのだとか。
この7.8ヘルツは、地球のシューマン共鳴と呼ばれる“地球の基本周波数”と一致します。つまり、「よかった・ありがとう」の呼吸法は、科学的にも“地球のリズム”と自分自身をシンクロさせ、宇宙的なバランスを取り戻す行為と志賀氏は位置づけました。
志賀氏の実験では、1週間この呼吸法を実践しただけで、多くの人が「眠りの質の向上」「朝の目覚めが爽やかになる」「ストレスが減り、気分が安定する」などの変化を実感。さらに1ヶ月続けることで、日常全体にポジティブな変化が表れる例が多数報告されているとか。
詳しくは、神さまの周波数とシンクロする方法 人生を変える奇跡の呼吸法 志賀 一雅 ビオ・マガジン等で、メルカリなどでも購入できます。
都道府県立図書館でも取り寄せができるかもしれません。
私が、この本を読んで驚いたのは、天風哲人の心身統一道の筋金入りのヘヴィ実践者の松下幸之助翁が不眠症に悩まされていたということです。
と言うのも、松下翁が、天風哲人の講演会を聴くようになった時期は、まだ事業の基盤を築いている草創期です。
長屋で小さな事業を始めたばかりの頃に、わざわざ夜行列車で大阪から東京まで足を運んで天風師の講演を聴きに行ったというエピソードは、当時の幸之助翁がいかに精神的な支柱や経営の指針を求めていたかを示すものと言えるでしょう。
昭和の時代に入ってからも、彼の事業は順調に拡大しつつも、初期の苦労や精神的な探求が続いていた時期で、天風哲人を尊敬し、その講義も熱心に聴講していたと聞いています。
松下翁の事業が時流に乗って急速に発展して成功を収めた後、天風哲人の心身統一道の教えに報いる形で天風会に多額の寄付を行い、その活動を支援していたことも、広く知られた事実です。
よって、寝入りばなを感謝で満たす「 観念要素の更改 」という方法を松下翁が知らなかったはずはないし、実践を心がけてないはずはありません。
そんな方でも、ハードな仕事という事情があったとはいえ不眠症に悩むことがあるのですから。
一応,Gemin2.5flashで分析もしてもらいました。
以下、私からGeminiへの質問および調査依頼も含めて抜粋してみます。
中村天風著「 運命を拓く 」という本に松下幸之助翁が出てきますが、その部分を、おおまかに引用できますか。確か、長屋で小さな会社で従業員も、ごく少数でアルバイトを雇っていた時から天風師の講演を聴きに来ていたと聞きます。
geminiの回答
はい、松下幸之助と中村天風の交流について、「中村天風の運命を拓く」という本からの直接の引用は見つかりませんでしたが、関連する情報として、松下幸之助がまだ大阪の長屋で家族とごく少数の従業員と共に仕事をしていた頃から、中村天風の講演を聞くために夜行列車で東京まで通っていたというエピソードが伝えられています。
松下幸之助翁がまだ大阪の長屋で家族とごく少数の従業員と共に仕事をしていた頃から、中村天風師の講演を聞くために夜行列車で東京まで通っていたというのは、おそらく本当でしょう。日本一の電器メーカーになってからも、時々天風先生を訪ねて相談に伺っていたと聞きます。
geminiの回答
松下幸之助が日本一の経営者になってからも中村天風を訪ねて相談していたというお話は、松下幸之助がいかに天風の教えを重んじていたかを示すものとして、多くの書籍や講演で語られています。
天風の教えは、松下幸之助の経営哲学である「素直な心」や「生成発展」といった考え方にも大きな影響を与えたと言われています。
具体的な相談内容や時期については、詳細な記録が残っているわけではありませんが、松下幸之助が天風会に多額の寄付をしていたことや、天風の教えを社員教育に取り入れていたことからも、その深い信頼関係が伺えます。
大阪の長屋で家族とごく少数の従業員と共に仕事をしていた頃というのは、昭和何年くらいと推定しますか?天風哲人が、正式な会を発足したのは確か1920年ごろですから、それ以降でしょう。
geminiの回答
松下幸之助が大阪の長屋で家族とごく少数の従業員と共に仕事をしていた頃というのは、**大正7年(1918年)**に「松下電気器具製作所」を創業した時期に当たります。この時、妻と義弟の3人で事業を開始し、その後年末には従業員が20名ほどになったとされています。
一方、中村天風が「統一哲医学会」(後の天風会)の基礎となる教えを説き始めたのは、ご指摘の通り**大正8年(1919年)**です。
したがって、松下幸之助がまだ創業間もない頃、長屋で少数の従業員と仕事をしながら中村天風の講演を聞きに東京まで通っていた時期は、**大正8年(1919年)から昭和初期(昭和一桁代)**にかけてと推定するのが妥当です。
特に、昭和に改元されたのは大正15年(1926年)の終わりですので、昭和の時代に入ってからも、彼の事業は順調に拡大しつつも、初期の苦労や精神的な探求が続いていた時期と言えるでしょう。
なるほど。草創期に聴講していたのは、複数の資料から確からしいですね。ある意味、筋金入りの実践者ですよね。となれば天風哲人の教えの一つである、寝入りばなの気持ちを整える「 観念要素の更改 」を松下翁が知らなかったはずはないですよね。知らなかったという可能性はありますか?考えにくいですけども。
geminiの回答
おっしゃる通り、松下幸之助が中村天風の教えを深く学び、自身の経営哲学にも取り入れていたことを考えると、「寝入りばなの観念要素の更改」という重要な教えを知らなかった可能性は極めて低いと言えるでしょう。
「観念要素の更改」とは
「観念要素の更改」は、天風哲学の核心をなす実践の一つです。特に「寝入りばな」の時間は、心が最もリラックスし、潜在意識に情報が浸透しやすい状態にあるため、その日の反省や明日への抱負をポジティブな言葉で心に刻むことで、心身の状態を良い方向に導くというものです。これは、自己暗示やポジティブシンキングの究極的な形とも言えます。
松下幸之助と天風哲学
松下幸之助は、単に天風の講演を聴いただけの「聴講生」ではなく、前述の通り事業の黎明期から多忙な合間を縫って東京まで足を運び、その後も師として深く尊敬し、天風会の活動を支援しました。彼の著書や発言の端々には、天風哲学、特に「積極精神」や「自己責任」、「心の力」といった考え方が色濃く反映されています。
もし松下幸之助が天風哲学の初歩的な部分しか知らなかったのであれば、これほどまでの深い関わりや支援はなかったはずです。天風が繰り返し説いた「観念要素の更改」は、その教えの中でも実践的な側面が強調される重要なポイントであり、深い関心を持つ門下生であればまず最初に学ぶべきことの一つです。
知らなかった可能性は考えにくい
したがって、「知らなかった」という可能性は、客観的に見て非常に低いと言わざるを得ません。むしろ、松下幸之助が日々の実践の中で、この「寝入りばなの観念要素の更改」を含む天風の教えを、彼なりの解釈や方法で取り入れ、自身の成功に活かしていたと考える方が自然です。彼の「素直な心」や「日に新たな生成発展」といった哲学は、まさに心の状態を常に良い方向へ導こうとする「観念要素の更改」の実践と深く通じるものがあります。
松下翁は、天風哲学を単なる知識としてではなく、自らの人生と経営を動かすための「実践の知恵」として捉えていたのでしょうね。
そうなんですが、そんな筋金入りの実践者の松下翁でも不眠症になったとのことです。資料も添付します。
これを、どう分析しますか?
不眠症に悩まされたのは翁が1982年ごろのことなので、天風哲人が亡くなられて、15年くらい経った頃です。
なので、そういう意識が薄れたというのもあるのでしょうか?
geminiの回答
おっしゃる通り、提供された資料によると、松下幸之助は晩年に不眠症に悩まされていたようです。この不眠症は、彼が松下記念病院の特別室で生活し、現役を退いて相談役となっていた頃のこととされています。
不眠症の原因として、資料からは以下の点が挙げられています。
日中の激務と精神的ストレス: 松下幸之助は相談役となっても、依然として松下電器グループの重要な経営判断を下しており、事業部長らを連日叱責するなど、精神的に非常に活動的で、ストレスフルな状態にあったと記されています。これが「平日は毎晩のように続くらしい」とあり、カッカしたまま眠りにつくため「眠れなくなってしまうのも当然」と分析されています。
寝具環境: ベッドは畳一畳ほどで造りつけ、薄い敷布団と掛け布団、そして瀬戸物の硬枕と畳の硬床という質素なものであったと描写されています。
就寝前の習慣: 広沢虎造の浪曲集や美空ひばりの歌謡曲のカセットを聴きながら寝ることが多かったとされていますが、これだけでは安眠には繋がらなかったようです。
中村天風が亡くなられたのが1968年(昭和43年)ですので、1982年ごろであれば、確かに天風が亡くなって14年ほどが経過しています。
天風哲学の実践者であった松下幸之助が不眠症になったことについて、以下のように分析できます。
日中の心の状態が優先された可能性: 天風の教えは「観念要素の更改」を通じて、心を常に積極的で建設的な状態に保つことを重視します。しかし、資料からは、松下幸之助が日中、グループの難題に直面し、部下を厳しく指導(叱責)することで、非常にカッカした状態が続いていたことが伺えます。観念要素の更改という方法を知っていても、日中の激しい感情の動きが、睡眠前の心の平静を保つことを困難にしていた可能性があります。
天風哲学の実践の継続性の問題: 天風哲学は日々の継続的な実践が重要です。松下幸之助が事業の拡大期から天風の教えを学んで実践していたのは確かですが、相談役という立場になっても、彼の責任感や理想と現実のギャップからくる苛立ちが、天風哲学の教える「積極的な心の使い方」を、不眠症になるほどには完全に実践しきれていなかったのかもしれません。多忙や高齢による心の疲れで、意識的に「観念要素の更改」を実践するエネルギーが以前ほどではなかった、あるいは実践の質が低下していた可能性も考えられます。
高齢による身体的変化の影響: 人は高齢になると、一般的に睡眠の質が低下しやすくなります。不眠症の原因は精神的なものだけでなく、身体的な要因も絡み合っていることが多いため、加齢も一因として考えられます。
資料の著者が提案した「よかった・ありがとう」の呼吸法によって不眠が改善したという記述は、松下幸之助が天風哲学の教え、特に「観念要素の更改」を再確認し、実践したことで効果が現れたことを示唆しているとも解釈できます。それは、天風の教え自体が薄れたというよりも、日々の状況の中でその実践が困難になっていたところに、改めてその重要性を促された、と考えるのが妥当かもしれません。