この記事は番外編ですが、インドのヨガ聖者の指摘(ただし、故あって省略)が正鵠を得ていて真理なら、
潜在意識領に、しこたま溜まった雑念妄念材料( 消極的心象要素 )の浄化の一環として、この項目は、このメイン・サイトのなかでも、かなり大事なページの一つと言ってもよいのかもしれません。

 

ただし、インターネット空間などは、有益な情報もある一方で

 

不要残留本能に勢いを与え雑念妄念の材料になる猥雑なものが蔓延しています。
検索しようと思えば、そういう類のが、呆れるくらい簡単に出てきてしまうという有様です。

 

昔に比べて、そういうのが非常に身近になっていることもあり
「 向上発展に向けて統御及び調整 」という点で、今回のテ-マにした淫欲の制御は
難しい部類の一つと言えるかもしれません。

 

( 私もこの件は、幾ばくか研究していますが、
むしろ現代のほうが難しいのかもしれません )

 

 

前置きはさておき、この記事を執筆した経緯を簡単に紹介しますと・・・

 

このサイトを執筆している私が潜在意識や集合無意識、シンクロニシティ等を、かなり研究していて
指導実績も幾ばくかあるというので、私にメールで相談しようと思った・・というのがあったのかもしれないのですが・・

 

 

( 要約すると 「 潜在意識を活用して不倫の恋を成就するなんてのは可能ですか? 」 )

 

という趣旨の質問をメール(ただし性別は名乗っても匿名かつ非常に短いメ-ル)でいただいたことがありました。

 

ある意味、不躾で、大変失礼なメ-ルです。

 

 

 

で・・拝見した瞬間に(能力開発や自己啓発メインのサイトで)守備範囲外。
それに大変失礼なメ-ルなので無視しようかと一瞬は思ったものの

 

 

 

こういう分野も10代の頃から幾ばくか研究してきたというのもあったので

 

( 思い直して )

 

割と忙しい合間を縫って結構な文字数を使って、理由も含めて血圧を上げて質問者にメールでお答えしました。

 

 

 

 

しかし、その後、質問者( 匿名相談者 )からメールも来なかったので、
そのまま放置状態になっています。

 

尤も本来、こういうのは、公開するものではないのですが、
自身の考えをハッキリさせたほうがサイト読者にも良いと思ったので、
どういう回答を私がしたかを公開することにした次第です。

 

 

 

なお、当時、匿名の相談者に対し、お答えしたものより、今回の記事の回答は、大幅加筆しています。

 

ということで本題に入って結論から先に申しますと・・

 

 

 

「 潜在意識を活用して不倫の恋を成就するなんてのは可能ですか? 」

 

 

というご相談( ご質問 )については

 

 

「 可能以前 」

 

と言わざるをえません。

 

 

少し長い説明を加えるなら

 

 

 

「 知らなくていいこともあるから、より深くは説明しないけれども、
そういう行為は、ご自身の表面意識の奥の潜在意識を汚し
心を暗く、かつ重くする体験要素を心に刻印する。

 

瑞々しい感応性能の調子をも崩し、原則に反する行為。

 

長いスパンを経て負の反動を生じる( エネルギ-的な穴埋めしないといけない墓穴を掘る )ことになる。

 

 

確かに技術的には可能かもしれない。

 

だけど一時的にはよくても、自分をだらしなくさせる体験要素を潜在意識に刻み
運命の歯車をよくない方向に動かす。

 

生活を荒ませ退転させる
負の因果応報の反射作用を時間を経た長いスパンで生ぜしめる行為ということになる。

 

 

 

だから( 悪いことは言わんから )ほんと、やめときなされ!!!

 

 いくら冷え切ってても痛みを伴っても、どうせ使うなら
奥さんとの関係改善に潜在意識を善用的に用いたほうがよい 」

 

 

 

という見解になります。

 

 

 

尤も自分の人生。生き方は自由。

 

「 不倫してたっていいやないか!・・別にバレなきゃいい・・

 

なのに、お前は何様のつもりで、そんなこと言うか!偉そうに 」

 

って返された場合は

 

 

「 ( もちろん人それぞれの価値観や考え方があることや、
そういう価値観になった背景があるだろうことも可能な限り理解に努めるつもり )

 

 

 

だけど、自分自身が仮に配偶者の立場に立ったとして、そういう想像をして、
そうされたら、あなたは嬉しい、楽しい、有難いなぁ!と心底感じ、心に尊さや清さを感じるのか?

 

バレないかもしれないし、別にバレなきゃいい!知った事か!頑固爺みたいなこと言うなよ!と考えてるかもしれないが

 

理性だけでなく、直覚的本心・良心( 善根<神道で言うなら直霊>に照らし
ふと素に還った時に後ろめたくなったり氣咎めしないのか?」

 

 

「あなた(の子供さん)や不倫相手の子供さんたちのことを考え慮って、
ほんの少しだけ思いやりを出して、頭を冷やし立ち止まったほうがよいんじゃないか?

 

潜在意識を本来的な使い方である善用的に使い
関係改善に努めたほうがよいかも 」

 

という助言になるかと思います。

 

 

 

ただし、そういう返しの問いを含む助言をしたとしても、

 

もうすでに、溺れていたら、恐らく聞く耳などない・・

 

匿名相談者は私からの回答が、そういう行為に対し
肯定する回答であることを期待し、それを前提で助言を貰えることを前提の相談だったかもしれない。

 

 

だから、期待外れの回答すると

 

下手をするとキレられて、こちらが、なじられ逆恨みされるのがオチ・・

 

 

ってことになる可能性が高いと思います・・

 

尤も、こういう見解は、もしかしたら天風哲人のコメントなど、文献を探したら
そのコメントや見解と私の見解及び回答は、ややニュアンスが異なるのかもしれません。

 

口述書などを研究すると天風哲人も、「 度外れな淫欲を不要残留本能心から出る(潜在意識を汚す)毒汁の1つで陶冶が必要 」としてはいますから、私も、そこまで外れたことは述べてはないとは思いたいのですけど、、

 

いずれにしろ

 

人間は、他の動物に比べて自由度が高く

 

世の中( 地球星 )を歴史的かつ水平的に見渡し俯瞰すると

 

別に不貞行為に限らず、世の中は犬畜生にも劣るような
消極的で卑劣(下劣)なことをする悪辣な方がいるかと思えば、

 

積極的で聖者や偉人、傑士と後に称されるようなことを為す方もいます。

 

これもヒトという生物種が、他の生物種と比較して特異であり、刺激と反応の間のスぺ-スが大きく
また、他の動物には見られない進化と創造を促進する天与の自由意志を有しているということ。

 

これにより、他の生物種に比べて、より大きな責任を負うことが求められているのかもしれません。

 

 

 

(植物神経由来の自動機構的な機械人形的なとこもヒトには、もちろんあることを観察できますが)

 

人間以外の動物種よりも、人は機械人形的色合いが薄いからかもしれない。

 

地球星の時空間圏内における、< 時間性を帯びた >成長、向上発展の大いなるスぺ-スの自由度が高いということ。

 

世の中を観察すると、ごく普通の人が圧倒的に多いように観察できるし、、

 

大概は、潜在意識領に、しこたま溜まった尊くなく清くなく卑屈に感じ、失意や挫折を想わせる観念要素に封じられ本心良心や高次の意志は出難くなっているように観察することができますけど

 

世の中を俯瞰すると、同じ人間なのに、下手をすると犬畜生にも劣るような下劣な生き方をする方がいる。

 

また、稀に聖哲と言われるような方も何十年(何百年)に一人みたいな間隔で綺羅星のように出たりする。

 

 

 

これは、時空圏内において、与えられた天寿の時間において

 

人格を含めて、その時空間圏内で、天由来の活かす力との合力で自らの取り組みも加算し
不要残留本能の下敷きになりやすい本心良心や高次の意志の力を渙発させるということ。

 

そうして、いかに精錬し、様々な創造的事を為し、限られた時空間圏内で
人格的にも錬磨させ成長させるか、
それとも軌道を外れて不要残留本能の下敷きになり脱線し退転するか、、

 

肉体的成長だけでなく心や心を超えた魂次元の成長のための時間と機会は、
基本的に公平に与えられているが、
用い方や縁により人によって大きな不公平が生じるということ。

 

公平の不公平の公平と申したらよいのか。

 

 

( 尤も、こういうことは、十代の頃に漠然と考えてたことで、

 

では?一体全体、どうやったら大きな進化向上、創造発展の流れ、秩序と調和に向けて
< 意識の底の潜在意識の貯蔵庫に始末に負えないくらいに溜まったマイナス因子< 心を邪に退転せしめる煩悩を想う材料 >に封じられ縛られた >天与の意志の力を
具体的、実際的に渙発できるかがわからず、当時は苦悩煩悶し、呻吟してたわけなのですが、、、

 

だから、「成功の実現」等の口述書は、知的整理だけでなく実践において
私にとって考え方のベ-スとしても相当に貢献したと思います )

 

こと自己本位で身勝手な性的不貞にフォ-カスしても

 

与えられた環境空間、時間圏内において
「 誘惑に弱く溺れて、だらしなくなる選択の自由・スぺ-スおよび愚行権 」 
「 溺れない選択の自由・スぺ-ス 」
さらに「 自堕落で溺れたところから、痛みを抱えても清算し立ち直る選択の自由・大いなるスぺ-ス 」もあると見ることも出来るのかもしれません。

 

この件については、7つの習慣と心身統一法のなかで簡単に、その理論について言及していますけど。

 

 

そういう行為選択と時間を経た結果の´ 収穫 ´の大いなるスペースがあるなかで
( その時空間の環境圏内で飛躍、向上、成長するか退転するかはともかく )

 

インドのヨ-ガ聖者の言説( ただし、諸々を考慮し引用は省略 )や私自身の長年の研究等からも
劣情に身を任せる行為は、一時的、刹那的には快を誘い当の本人にとっては、好ましいと思えるかもしれませんけど、、、

 

結果的に、そういう自己本位の欲や動機に振り回されると
時間を経て心の奥の潜在意識を含めた大事な心の奥に負の因果律の刻印を押し、碌なことにならないということ。

 

 

そういう思いを温めて、行為選択の結果、時間を経て(心を)暗く重くし、
雑念妄念を増やして下降させる温床になる。

 

また自由とは言え発展原則に反する行為になる。

 

それを証拠に、

 

颯爽溌溂、明るく伸びやか、生き生き軽やかに劣情に溺れる

 

などという言葉は、使われないでしょう。(;^_^A

 

 

それだけ、ドロドロで暗く重いということです。

 

 

言い換えるなら自己本位の動機に動かされて劣情に溺れること自体が
重く、じめじめ、ドロドロした暗い想いで、
雑念妄念、邪欲邪念の温床になるし、そういう行為に耽っていると時間を経て、どんどん下降し生活を荒ませ
長い目で見て坂道を転がるように運を失う落ちていく思いでしょう。

 

 

 

さらに追加するなら

 

栄枯盛衰は世の習いですよね。

 

身近な例を挙げれば企業も例外ではないです。
どんなに栄華を誇った大企業でも、いつかは衰退していく可能性があります。

 

帝国データバンクの調査でも、創業から30年後に存続している企業はわずか5%です。
つまり、95%の企業は30年以内に消滅しているという現実があります。

 

では、厳しい競争を勝ち抜いた大企業なら栄枯盛衰の習いから外れることが出来るでしょうか?
残念ながら、そんなことはありません。

 

近年では、東芝やシャープなど、かつては日本を代表する大企業が倒産する事例も珍しくありません。

 

 

国だって、そうです。古今東西で歴史的に国家興亡は世の常です。

 

ですが国は滅びても1000年、2000年というスパンの時の試練を経てすら残ってきた高等な精神的教えほど、
奇妙なことに、自己本位な性的不貞行為を避けることを促し奨めています。

 

方位磁石の赤い針が、常に北を向くように、共通方向を示しています。

 

 

国は滅びても連綿と残ってきた精神的な教えのなかで
これを避けることを諭してない高等な教えはないと言ってもよいくらいです。

 

こんなことは、聖典研究を、ちょっとすれば、わかるでしょう。

 

仏教の専門書を何百回も読んだり、
あるいは旧約および新約のバイブル約2千数百ペ-ジを通しで何十回も読まなきゃわからないことでは決してないです。

 

 

例えば世界宗教の一つで無常、空の哲学だけでなく十二処十八界、四諦説を説いた釈尊の仏教。
この教えの中にも身勝手な不品行(不適切な性的行為)を避けるようにという内容が盛り込まれています。

 

あるいは、同じく世界宗教のキリスト教。
キリスト教は世界総人口の約32%、約24億人の信徒がいるとされます。

 

そのキリストの言行を綴った新約聖書には貞潔や性的な倫理に関する多くの節があります。

 

当然と言えば当然です。

 

キリスト教の母体になったユダヤ教自体が、身勝手な性的不道徳に対して厳しい教えを内包しています。
ユダヤ教の開祖で出エジプトを敢行したリ−ダ−のモ-セが40日断食を2回もした上で授かった(石板に刻まれた十戒の律法)を精査すれば、それは明らかでしょう。

 

 

事実として、キリストご自身も、自己本位のみだらな行いだけでなく、心の中の態度や動機にもメスを入れ
非常なる重きを置いて教え諭しています。( 内面にまでメスを入れたという事。そこがユダヤ教との大きな違いでしょう )
そして、みだらな行いに至る想いを長々と温めることも避け、
自己中心的でない根深い思いやりに根差した愛に純化し高めるようにと諭しています。

 

 

その教えに倣おうとした方は、歴史的には例えば紀元4世紀を生きたアウグスチヌスなどのように
カルタゴで修辞学教師として活躍してはいたけど
退廃的で放蕩な生活をし、そのまま、そういう悪習に隷属し取り込まれた生活のまま人生終わるかと思いきや

 

懊悩で死ぬほど、これに悩み、だらしない自身を深く悔い、自身(の煩悩)と闘うプロセスを経て
溺れた生活から抜け出し魂の回心を果たしています。

 

そうして、その後もアウグスチヌスは研鑽を積み、
その心を純化、精練(霊化)させ高め上げ明るく伸びやかに解放させています。

 

彼は、魂の回心を果たし内的な厳しい生活の中で劣情を洗い昇華させ
歴史的にもキリスト教西欧社会の哲学的思想の基礎となる
重要な多くの著作を後世に残しました。

 

あるいは、ヨ-ガ哲学。

 

これも相当に研究してみましたけど、、
これも、心身を健やかで軽やか、のびやかにする生活綱領〈ヤマ、ニヤマ〉として、
その記述があるのは研究してる方なら大概の方が知っている周知の事実です。

 

あくまで私の考えでは、、宗教とか宗派問わず、、自分(エゴ)のだらしなさと闘い、無明の曇りを掃おうとすることが
智慧の完成(覚り)の第一歩と考えていますが、

 

思うに邪淫に耽ることは進化過程の残渣である野獣性の不要残留本能を肥大化させ
時間を経て心の曇り(雑念妄念)を増し歪ませ心を超えた霊性の向上に重い蓋をし、停止させる。

 

 

その結果、心との相互作用で鍛えられ耕され向上を促す脳神経基盤の高次の判断を衰えさせ、
長い目で時間経過を経て、その行為は生活を刹那的にし停滞させる。

 

そのような負の因果の歯車を回す温床になっちゃう。

 

だから、少しずつでも心を重く後ろ暗くする行為は避け

 

心を軽く伸びやかにする行為( 三勿三行 )を心がけ、そういう行為を通じて
消極で邪なものを情け深い思いやりに根差したものに
少しずつ純化していったほうがよいのではないか?と考えるに至ってます。

 

 

 

 

 

よって軽やか、かつ伸びやかに、ぐんぐん発展せしめる原則に反する行為は、
心理及び物理的時空間内における選択の自由、大いなるスぺ-スはあっても
避ける方向で過ごすほうが無難ということ。

 

潜在意識の力を利用する際においても技術的には可能で、好きに振る舞える自由はあっても

 

倫理的な指針に照らし長期的な結果を考慮するという慎重な姿勢が重要ということ。

 

子供たちのことも考えたら

 

冷え切っていようが不倫に溺れるより、思いとどまって
配偶者との関係改善に潜在意識の力を善用的に使い
全力を尽くし修復に努めたほうがよいという考えです。

 

もうすでにドップリ溺れて負の因果の刻印をしてるような状態から、
時間を経て負の因果をもたらすものを、出来るだけ和らげる方法については、
私自身も、流石にちょっとは研究はしてますが、ほとんど進んでいません。
難しいという事だけは間違いなく、
そういうのを解明するのは私の役割ではないのかもしれない。

 

 

ただし、そういう自己本位で自堕落なものを吹っ切るには、
戒め抑制するという内面的にも辛く厳しさを伴う方向よりも

 

インドの某ヨ-ガ聖者が為さったようなことを心がける。

 

ただし、これは庶民には難しいので

 

心身統一法をバイパスさせ自己統御する力を少しずつ高めながら

 

低次なのより、もっと魅力的で上質な喜びを与えてくれる無限の叡智と申しますか、、Xを切に求め

 

煩悩を生じる欲を高級な欲に変容せしめる。

 

そうして体験を重ねるなかで動機を耕し形而上の見えざる領域のうち、
発展や向上、生活を廉潔化する見えざる高次領域との関係を深めることを心がけ潜在意識を方向づけるということ。

 

そうして低次の快を誘い、雑念妄念を増やし、だらしなくさせることには見向きもしなくなるように心を少しずつ仕向けていく。

 

加えて、そういう邪な劣情を昇華、純化させ霊性の進化や夢中になり生きがいを感じる創造的な行為や霊性満足の生きがいある目標に振り向ける、、

 

これだって、理想論でして、実行は、とても難しいわけですけど、、
そういう方針と方向性で取り組むほうが良いのかもしれないと思うようになっています。

 

PS

 

あまり研究できてないですし、人それぞれの価値観があり、ニ-ズがあるかわからない。

 

インタ-ネット仮想空間で、誰でも閲覧できる場で、こういった記事や以下に述べるようなことを書くと、
揶揄するメ-ルが届くことがあるので、書くのも、やや躊躇がありますが

 

 

先ず前提として

 

私が考えるに、「 情欲の思いが湧かない人間などいないのでは? 」。
これは人間の基本的な本能だろうというのが前提です。

 

 

 

原始時代以前からの気が遠くなるような初期プロセスで
そういうのが植え付けられている。

 

その一方で、世界宗教になったような宗教の教義や規範のなかには、
性欲を卑しいとするものが散見されます。
研究したらわかるように。

 

しかし、これを卑しいとしたら人類は滅んでしまうでしょう。

 

 

その箍(たが)が外れてしまい、奔放、無軌道になるとよくないわけで

 

聖者のガンジ−すら、これに悩んだと聞きます。

 

だから、そういうのが湧いたことがないという方は、これから述べることは全く役に立たないし

 

こういうのに葛藤し悩んだことがない方は、
以下に書くことも、何らの参考にもならないと思いますけど。

 

あくまで、それを前提で

 

 

自己本位の情欲の思いが、ふと湧いた際は、先ず

 

1)第三者的に、その想いと吾を切り離して等閑的に観る(自覚する)

 

これが出来ない方が案外多いのかもしれない。

 

出来ていたらインタ-ネットの仮想空間が、あんなに汚染されてないはず。

 

 

 

尤も、これを為すには心でも、ましてや体でもない吾に頻繁に達入できることが、一つの条件ではないかと考えます。

 

でもって、これに気づくのすら「 口述書 」等と縁がないと、私たち普通の庶民には、どうにもならない。

 

この自覚を深めることをし第三者的に、実在意識に飛び出て湧き上がる想い(に、吾をくっつけず)
離して、それを等閑的に観る(自覚する)

 

等閑視出来たら

 

次に、そういう雑念妄念の温床になる自己本位の度外れで奔放な連想が温められ膨らんで行動衝動にまで強くなる前に

 

( 予防的に )

 

2)´主の祈り´や日本の´祓詞´などに気を向けて、これらをろ過装置にして、みだらな消極連想を、すっと逸らし、想念浄化をする

 

というのも、みだらな想いが温まって、強くなる前に和らげ
煩悩を別の創造的かつ発展方向に転嫁するワンクッションの´いなし´に使うということ。

 

そうしてエネルギ-の逃げ道を作るということ。

 

もの凄い力を持っている性的エネルギ-を奔放化せず

 

創造方向に向ける際の、ひとつ前の切り替えのワンクッションの工夫として、主の祈りや祝詞による想念浄化は、幾ばくかは有効なのかもしれません。

 

ただし

 

HOW To DOとして有効か?汎用性や再現性も確かめていません。こういうのになると一気に難易度も上がりますし。

 

 

´主の祈り´としたのは、私がバイブルに対して、相当になじみ深いというのがあります。

 

日本人はバイブルになじみが薄いので知らない方が多いかもしれませんが
バイブルの´ 主の祈り ´は、歴史的かつ世界的に、最も古く権威があります。

 

以前の私のような探究のやり方で、挫折する( 動機がよくなかった<とは思いたくないですが>
読めば読むほど心が煩悶し支離滅裂化し弱くする )のではなく、
一つの聖句に深く没入し徹する、、というのもアプロ-チの方法としては、ありかもしれません。

 

尤も、私は何故かバイブルに、ご縁があっただけで
バイブルに馴染みがない方は日本人の方のほうが圧倒的に多いと考えます。

 

そういう方は、例えば日本の´祓詞´などに気をふっと向けて

 

 

祈り(祝詞)をバイパスして

 

心の波動の振動数を上げ、
自己本位な不埒な連想を逸らし、言葉の波動に集中することで、邪なものを、ろ過していく( 想念浄化する )というのは
同時に矛盾したそれぞれのことを想えないという心の原理原則からも有効かもしれません。

 

悲観的で絶望的な事を鬱々とメンタルスクリ−ンに描き想いながら

 

その一方で感謝と勇気に溢れた積極的なことは感じ思えないです。
それと同じです。

 

尤も、潜在意識の印象貯蔵庫に霊性心(本心良心)に、
ことあるごとに反逆しがちな不要残留本能由来の雑念妄念の材料になるものが、始末に負えないくらい幾重にも溜まってたら
情け深い思いやりを出せ!と言ってもなかなか出ないし
いつも感謝と勇気と歓喜に溢れたことを強く気高く思え!

 

いつも上機嫌でいなさい!と言われたってできないんですけど。(;^_^A

 

 

で、感じせしめられる心のアンテナとも言うべき感応性能の調子をよくし良好に保つのに
心を取り締まる意志力を渙発しやすくするSTEP1に戻らざるを得ないわけです。

 

 

 

 

長々書きましたが、結局、この分野は、あまりにも難しく私には荷が重くどれが効力が高いか、充分に判別できていません。

 

 

決定的な有効打になるのかもわからない。

 

私自身も、こういう分野に、取り組んできた背景はありますが、あまり研究が進んでいませんし、
こういうことに人知れず深刻に悩み、変容、昇華、純化させることに強い興味がある方自体、案外と多くないかもしれません。

 

こういうのは、人知れずの孤独な取り組みが必要で、

 

集団や大きな組織で、取り扱えるものではないかもしれない。

 

こういうのに熱心に取り組んできた長い伝統があるインドのヨ-ガ聖者の方法などとも組み合わせて
人知れずの孤独な取り組みで、自らを責めずに大らか穏やかに昇華、変容させる必要があるのかもしれません。

 

宗教宗派など問わないフラットな探求で

 

結果オ−ライの具体的方法を探求はしてエネルギ−操体的な事も実践していますが、
いきなりハ-ドルが上がってしまい難しくなる。
誰にでもうまくいくのかわからない、そういうのは発見できてない現状です。

 

それに、こういう分野に取り組むということは、ある部分を諦めないといけないとこがあります。(;^_^A
そういうのも含めて難しい道かもしれません。