この記事は番外編ですが、インドのヨガ聖者の指摘(ただし、故あって省略)が正鵠を得ていて真理なら、
意識に昇る以前の識閾下に溜まった妄念材料( 消極的心象要素 )の大掃除の一環として、この項目は、このメイン・サイトのなかでも、かなり大事なページの一つと言ってもよいのかもしれません。
不要残留本能に勢いを与え雑念妄念の材料になって心に連結した脳の力を弱めるものが蔓延しています。
実際、そういうものへの耽溺的な視聴は、意思(意志)決定力の低下、自制心の減少、作業記憶の低下を招くという論文もあります。参考文献
そういう研究結果がすでに出てるのに検索しようと思えば、そういう類のが、呆れるくらい簡単に出てきてしまうという有様です。
某聖者の言説によると性的放銃は、高次の意志の力を破壊するという指摘もあります。
自己啓発作家のナポレオンヒル博士も過度に性欲を奔放化しないように転換なさい!みたいなことを、その著書で述べていたと記憶します。201
私も一応、自己統御の一環で宗教宗派の優劣などを問わないフラットな探求で
結果オ−ライの具体的方法の探求は、勿論しています。
エネルギ−操体的な事も実践してHow to Doのスタンスで研究はしてきています。
この分野は、貝原益軒翁も養生訓のなかで色欲を慎むことが健康と長寿に不可欠であると強調してますね。
とは言え、こういうのも注意深くやらないと偏差リスクもあるし、三大欲求に関わっていることもあり、いきなりハ-ドルが上がってしまいますから。
難しいという事だけは間違いないでしょう。
前置きはさておき、この記事を執筆した経緯を簡単に紹介しますと・・・
このサイトを執筆している私が潜在意識や集合無意識、引き寄せ、シンクロニシティ等を、
かなり研究していて指導実績も幾ばくかあるというので、
私にメールで相談しようと思った・・というのがあったのかもしれないのですが・・
( 要約すると 「 潜在意識を活用して不倫の恋を成就するなんてのは可能ですか? 」 )
という趣旨の質問をメール(ただし性別は名乗っても匿名かつ非常に短いメ-ル)でいただいたことがありました。
ある意味、不躾で、大変失礼なメ-ル( ある意味、哀しいメ-ル )です。
で・・拝見した瞬間に(能力開発や自己啓発メインのサイトで)守備範囲外。
それに大変失礼なメ-ルなので、答える必要なし!無視しようかと一瞬は思ったものの
こういう分野も何故か、10代の頃から幾ばくか研究してきたというのもあったので
( 思い直して )
割と忙しい合間を縫って結構な文字数を使って、理由も含めて血圧を上げて質問者にメールでお答えしました。
しかし、その後、質問者( 匿名相談者 )からメールも来なかったので、
そのまま放置状態( 宙ぶらりん状態 )になっています。こうなっては、仕方ないでしょう。
もうすでに、当時頂いたメ-ルもアドレスごと削除していますし。
それに本来、こういうのは、記事にするものではないのですが、
ポリシ-を曲げてまで記事にしたのは
自身の考えをハッキリさせたほうがサイト読者(実践者)にも良いと思ったので、
どういう回答を私がしたかを記事にすることにした次第です。
なお、当時、匿名の相談者に対し、お答えしたものより、今回の記事の回答は、大幅加筆しています。
ということで本題に入って結論から先に申しますと・・
「 潜在意識を活用して不倫の恋を成就するなんてのは可能ですか? 」
というご相談( ご質問 )については
「 可能以前 」
と言わざるをえません。
少し長い説明を加えるなら
「 知らなくていいこともあるから、より深くは説明しないけれども、
そういう行為は、ご自身の表面意識の奥の潜在意識を汚し
心を後ろ暗く、かつ重くする体験要素を心に刻印する。
瑞々しい感応性能の調子をも崩し、原則に反する行為。
長いスパンを経て負の反動を生じる( エネルギ-的な穴埋めをしないといけない墓穴を掘る )ことになる。
確かに技術的には可能かもしれない。
だけど一時的にはよくても、穴埋めが必要な体験要素を潜在意識に刻み
運命の歯車をよくない方向に動かす。
生活を荒ませ退転させる
負の因果応報の反射作用(の因子)を時間性を帯びた長いスパンで生ぜしめる行為ということになる。
だから( 悪いことは言わんから )ほんと、やめたほうがいい。
いくら冷え切ってても痛みを伴っても、どうせ使うなら
奥さんとの関係改善に潜在意識を善用的に用いたほうがよいですよ 」
という見解になります。
尤も自分の人生。生き方は自由。
「 不倫してたっていいやないか!・・別にバレなきゃいい・・
なのに、お前は何様のつもりで、そんなこと言うか!偉そうに 」
って返された場合は
「 ( もちろん人それぞれの価値観や考え方があることや、
そういう価値観に至った背景があるだろうことも可能な限り理解に努めるつもりです )
だけど、自分自身が仮に配偶者の立場に立ったとして、そういう想像をして、
そうされたら、あなたは嬉しいな、楽しいな、有難いなぁ!と心底感じ、心に尊さや清さを感じるのか?
バレないかもしれないし、別にバレなきゃいい!知った事か!頑固爺みたいなこと言うなよ!と考えてるかもしれないが
理性だけでなく、直覚的本心・良心( 善根<神道で言うなら直霊>に照らし
ふと素に還った時に後ろ暗くなったり氣咎めしないのか?」
「あなた(の子供さん)や不倫相手の子供さんたちのことを考え慮って、
ほんの少しだけ情け深い思いやりを絞り出して、頭を冷やし立ち止まったほうがよいんじゃないか?
潜在意識を本来的な使い方である善用的に使い
関係改善に努めたほうがよいかも 」
という助言になるかと思います。
ただし、そういう返しの問いを含む助言をしたとしても、
もうすでに、溺れていたら、恐らく聞く耳などない・・
匿名相談者は私からの回答が、そういう行為に対し
肯定する回答であることを期待し、それを前提で助言を貰えることを前提の相談だったかもしれません。
だから、私が期待外れの回答をすると、
下手をするとキレられて、こちらが、なじられ逆恨みされるのがオチ・・
ってことになる可能性が高いと思います・・仕方がないこととは言え・・
尤も、こういう見解は、もしかしたら天風哲人のコメントなど、文献を探したら
そのコメントや見解と私の見解及び回答は、ややニュアンスが異なるのかもしれません。
口述書などを研究すると天風哲人も、「 度外れな淫欲を不要残留本能心から出る(潜在意識を汚す)毒汁の1つで陶冶が必要 」としてはいますから、私も、そこまで外れたことは述べてはないとは思いたいのですけど、、
いずれにしろ
人間は、他の動物に比べて自由度が高く
世の中( 地球星 )を歴史的かつ水平的に見渡し俯瞰すると
別に不貞行為に限らず、世の中は犬畜生にも劣るような
消極的で卑劣(下劣)なことをする悪辣な方がいるかと思えば、
積極的で聖者や偉人、傑士と後に称されるようなことを為す方もいます。
これもヒトという生物種が、他の生物種と比較して特異であり、
刺激と反応の間のスぺ-ス、自由度が大きく
また、他の動物には見られない進化と創造を促進し貢献し愉しむための天与の自由意志を有しているということ。
これにより愉しみを得られる一方で、そういう進化と創造発展のレ-ルから外れた場合に苦痛が大きくなる。
また他の生物種に比べて、より大きな責任を負うことが求められているのかもしれません。
(植物神経由来の自動機構的な機械人形的なとこもヒトには、もちろんあることを洞察できますが)
人間以外の動物種よりも、人は機械人形的色合いが薄いからかもしれない。
地球星の時空間圏内における、< 時間性を帯びた >成長、向上発展によって楽しみを得る大いなるスぺ-スの自由度が高いということ。
世の中を観察すると、ごく普通の人が圧倒的に多いように観察できますが、
同じ人間なのに、下手をすると犬畜生にも劣るような獣的で下劣、本能衝動的な生き方をする方がいる。
また、稀に聖哲と言われるような方も何十年(何百年)に一人みたいな間隔で綺羅星のように出たりする。
これは、時間性を帯びた時空圏内において、与えられた天寿の時間において
人格を含めて、その時空間圏内で、天由来の活かす力との合力で自らの取り組みも加算し
不要残留本能の下敷きになりやすい本心良心や高次の意志の力を渙発させ、内外の向上発展を為し成長させ、都度満足させるということ。
そうして、内面も含めて、いかに精錬し、様々な創造的事を為し、限られた時空間圏内で
人格的にも錬磨させ成長させるか、
それとも軌道を外れて不要残留本能の下敷きになり脱線し退転するか、、
肉体的成長だけでなく心や心を超えた魂次元の成長のための時間と機会は、
基本的に公平に与えられているが、
用い方や縁により人によって大きな不公平が生じるということ。
公平の不公平の公平と申したらよいのか。
( 尤も、こういうことは、十代の頃に漠然と考えてたことで、
では?それは前提として、それを踏まえて一体全体、どうやったら大きな進化向上、創造発展の流れ、秩序と調和に向けて
< 意識の底の潜在意識の貯蔵庫に始末に負えないくらいに溜まったマイナス因子に封じられ下敷き化し縛られた >天与の意志の力を
具体的、実際的に渙発し、心を取り扱うことができるか?
これは本当に難しい課題でして、雲をつかむような困難を感じ、わからず、
当時は苦悩煩悶し、呻吟してたわけなのですが、、、
だから、「成功の実現」等の口述書は、知的整理だけでなく実践において
私にとって考え方のベ-スとしても相当に貢献したと思います )
こと不要残留本能由来の自己本位で身勝手な性的不貞にフォ-カスしても
与えられた環境空間、時間圏内において
「 誘惑に弱く惹かれやすく溺れて、だらしなくなる選択の自由・スぺ-スおよび愚行権 」
「 溺れない選択の自由・スぺ-ス 」
さらに「 自堕落で惹かれやすく溺れやすい傾向を自覚しつつも痛みを抱えても清算し立ち直る選択の自由・大いなるスぺ-ス 」もあると見ることも出来るのかもしれません。
この件については、7つの習慣と心身統一法のなかで簡単に、その理論について言及していますけど。
そういう行為選択と時間を経た結果の´ 収穫 ´の大いなるスペースがあるなかで
( その時空間の環境圏内で飛躍、向上、成長するか退転するかはともかく )
インドのヨ-ガ聖者の言説( ただし、諸々を考慮し引用は省略 )や私自身の長年の研究等からも
劣情に引かれ、それに身を任せ強化する行為は、一時的、刹那的には快を誘い当の本人にとっては、好ましいと思えるかもしれませんけど、、、
結果的に、そういう自己本位の欲に振り回され行動強化すると
大事な心の奥に負の因果律の刻印を押し、そういう要素を増やして碌なことにならないということ。
そういう思いを温めて、行為選択をした結果、時間を経て(心を)暗く重くし、
雑念妄念を増やして下降させる温床になる。
また自由とは言え発展原則に反する行為になる。
それを証拠に、
颯爽溌溂、明るく伸びやか、生き生き軽やかに劣情に溺れる
などという言葉は、使われないでしょう。(;^_^A
それだけ、ドロドロで暗く重いということです。
言い換えるなら自己本位の動機に動かされて劣情に溺れること自体が
重く、じめじめ、ドロドロした暗い想いで、
雑念妄念、邪欲邪念の要素になるし、そういう行為に耽っていると時間を経て、どんどん下降し生活を荒ませる温床になります。
長い目で見て坂道を転がるように運を失い不幸の轍に落ちていく思いでしょう。
さらに追加するなら
栄枯盛衰は世の習いですよね。
身近な例を挙げれば企業も例外ではないです。
どんなに栄華を誇った大企業でも、いつかは衰退していく可能性があります。
帝国データバンクの調査でも、創業から30年後に存続している企業はわずか5%です。
つまり、95%の企業は30年以内に消滅しているという現実があります。
では、厳しい競争を勝ち抜いた大企業なら栄枯盛衰の習いから外れることが出来るでしょうか?
残念ながら、そんなことはありません。
近年では、東芝やシャープなど、かつては日本を代表する大企業が倒産する事例も珍しくありません。
国だって、そうです。古今東西で歴史的に国家興亡は世の常です。
ですが国は滅びても1000年、2000年というスパンの時の試練を経てすら残ってきた高等な精神的教えほど、
奇妙なことに、自己本位な性的不貞行為を避けることを促し奨めています。
方位磁石の赤い針が、常に北を向くように、共通方向を示しています。
国は滅びても連綿と残ってきた精神的な教えのなかで
これを避けることを諭してない高等な教えはないと言ってもよいくらいです。
こんなことは、聖典研究を、すれば、わかるのではないでしょうか?
仏教の専門書を何百回も読んだり、
あるいは旧約および新約のバイブル約2千数百ペ-ジを通しで何十回も読まなきゃわからないことでは決してないです。
例えば世界三大宗教のキリスト教、仏教、イスラム教。
これらは、地位や名誉、権力、財力に依存しない価値観を持ち、現世否定的な教えを内包しています。
現世の生活は、仮初めで一時的に過ぎないのであり、最終的には来世が重要であるという教えを含んでいる点で共通項と同一方向のベクトルを持ちます。
裏返せば、そういう構造と方向性を持っていたがゆえに国境を越えて民族宗教から世界宗教になったということも出来るかもしれません。
ゆえに、( 守れるかはさておき )倫理的かつ精神的な教えが多いんです。
例えば世界三大宗教の仏教。
仏教は、読者の中には詳しい方も多いみたいですけど無常、空の哲学だけでなく十二処十八界、八正道や四諦説を説いて苦からの解放を標榜した教えです。
この教えの中にも来世を含めた六道輪廻からの解脱のためにも身勝手な不品行(不適切な性的行為)を避けるようにという内容が盛り込まれています。
あるいは、同じく世界宗教のキリスト教。
キリスト教は世界総人口の約32%、約24億人の信徒がいるとされます。
そのキリストの言行を綴った新約聖書には貞潔や性的な倫理に関する多くの節があります。
当然と言えば当然です。
キリスト教の母体になったユダヤ教自体が、身勝手な性的不道徳に対して厳しい教えを内包しています。
ユダヤ教の開祖で出エジプトを敢行したリ−ダ−のモ-セが40日断食を2回もした上で授かった(石板に刻まれた十戒の律法)を精査すれば、それは明らかでしょう。
事実として、キリストご自身も、自己本位のみだらな行いだけでなく、心の中の態度や動機にもメスを入れ
非常なる重きを置いて教え諭しています。( 内面にまでメスを入れたという事。そこがユダヤ教との違いの一つとして大きいでしょう )
そして、みだらな行いに至る想いを長々と温めることも可能な限り避け、
自己中心的でない根深い思いやりに根差した愛に純化し高める行為を為す様にと諭しています。
その教えに倣おうとした方は、歴史的には例えば紀元4世紀を生きたアウグスチヌスなどのように
カルタゴで修辞学教師として活躍してはいたけど
退廃的で放蕩な生活をし、そのまま、そういう悪習に隷属し取り込まれた生活のまま人生終わるかと思いきや
懊悩で死ぬほど、これに悩み、だらしない自身を深く悔い、自身(の煩悩)と闘うプロセスを経て
溺れた生活から抜け出し魂の回心を果たしています。
そうして、その後もアウグスチヌスは研鑽を積み、
その心を純化、精練(霊化)させ高め上げ明るく伸びやかに解放させています。
彼は、魂の回心を果たし内的な厳しい生活の中で劣情を洗い昇華させ
歴史的にもキリスト教西欧社会の哲学的思想の基礎となる
重要な多くの著作を後世に残しました。
( ちなみにアウグスチヌスの回心は母親モニカが息子の乱れた生活に死ぬほど心を痛めて17年にもわたって直向きな涙の祈りを捧げたことも間接貢献したのでは?という研究もされています。こういう分野に興味のある方は、知ってると思いますけど )
あるいは、ヨ-ガ哲学。
これも私は相当に研究してみましたけど、、
ヨ−が哲学も心身を健やかで軽やか、のびやかにする生活綱領〈ヤマ、ニヤマ〉として、
その記述があるのは研究してる方なら大概の方が知っている周知の事実です。
あくまで私の考えでは、、宗教とか宗派問わず、、自分(エゴ)のだらしなさと闘い、無明の曇りを掃おうとすることが
智慧の完成(覚り)の第一歩と考えていますが、
思うに邪淫に耽ることは進化過程の残渣である野獣性の不要残留本能を肥大化させるということ。
無論,不徳なことをして成功する方も世の中には多いです。
しあkし、時間を経て心の曇り(雑念妄念)を増し歪ませ気を散らしやすくし心の本来の力を弱める。
心を超えた霊性の向上に蓋をしてしまう。
( 主観的な幸福感に関与する感性や形而上のことに対する高級感覚が、黒雲が覆いかぶさるような感じになって鈍ってしまうのではないかと )
その結果、心との相互作用で鍛えられ耕され向上を促す脳および脊髄中枢神経基盤の高次の判断を衰えさせ、
長い目で時間経過を経て、その行為は生活をさらに刹那的にし荒ませてしまう。
性的乱れが、どんどん助長することによって、そのような負の因果の歯車を、さらに回す温床になっちゃうという意味です。
だから、少しずつでも心を重く後ろ暗くする不貞などの行為は避けるということ。
( 避けたからと言って富豪にはなれないかもしれませんが、不要残留本能や肉体感覚、悪習の下敷きになっている本心良心は、力を少しずつ培いますし、本心良心が喜びますので、一時的な喜びではない喜びをもたらします )
さらに加えて心を軽く伸びやかにする行為( 三勿三行 )を心がけるということ。
そういう行為を通じて消極で邪なものを見返りを求めない情け深い思いやりに根差したものに
少しずつ純化していったほうがよいのではないか?と考えるに至ってます。
要するに、見返りを求めない情け深い思いやりに根差した行為の積算で、清々しい喜びを味わうことによっても人を不埒にせしめる要素が奥底から洗われていくのではないかという仮説になります。
よって軽やか、かつ伸びやかに、ぐんぐん発展せしめる原則に反する不倫などの行為は、
心理及び物理的時空間内における選択の自由、大いなるスぺ-スはあっても
不幸のの轍に落ち込まないように避ける方向で過ごすほうが無難ということ。
潜在意識の力を利用する際においても技術的には可能で、好きに振る舞える自由はあっても
倫理的な指針に照らし長期的な結果を考慮するという慎重な姿勢が重要ということ。
( 堅物なこと言って申し訳ないけど )
子供たちのことも考えたら
冷え切っていようが肉体本位、自己本位の不倫に溺れるより、思いとどまって
配偶者との関係改善に潜在意識の力を善用的に使い
全力を尽くし修復に努めたほうがよいという考えです。
ただし、そういう自己本位、肉体本位で自堕落なものを吹っ切るには、
戒め抑圧するという内面的にも辛く厳しさを伴う方向よりも
インドの某ヨ-ガ聖者が為さったようなことを心がける。
ただし、これは庶民には難しいし低次なのに、惹かれやすいのは、もう仕方ないので、
心身統一法をバイパスさせ自己陶冶する力を少しずつ高めながら
煩悩を生じる欲をクリ-ニングしつつ高級な欲に変容せしめる。
そうして積極的な体験を重ねるなかで
だらしなくさせることには関心が薄まっていくように生命用具の心を少しずつ仕向けていく。
加えて、そういう邪な劣情を満たすことで喜ぼうとする性向を弱めながら、一方で昇華、純化させ霊性の進化や、より高い生きがいを感じる創造的な行為や霊性満足の欲や生きがいある目標に心を振り向けることができるように仕向けて行く、、
これだって、理想論でして、実行は、とても難しいわけですけど、、
そういう方針と方向性で取り組むほうが良いのかもしれないと思うようになっています。
PS
あまり研究できてないですし、人それぞれの信条や価値観があり、ニ-ズがあるかわからない。
書くのも、やや躊躇がありますが
先ず前提として
私が考えるに、「 情欲の思いが湧かない人間などいないのでは? 」。
これは人間の基本的な原始本能だろうというのが前提です。
原始時代以前からの気が遠くなるような初期プロセスで
そういうのが植え付けられて、そういうのに惹かれやすい性質が残念ながらある。
その一方で、世界宗教になったような宗教の教義や規範のなかには、
性欲を卑しいとするものが散見されます。
研究したらわかるように。
しかし、これを蔑視したら人類は滅んでしまうでしょう。
その箍(たが)が外れてしまい、奔放、無軌道になると犬畜生にも劣るような人間になってしまい、よくないわけで
聖者のガンジ−すら、そういうのに惹かれやすい自身に煩悶し悩んだと聞きます。
だから、そういうのが湧いたことがないという方は、これから述べることは全く役に立たないし
こういうのに葛藤し悩んだことがない方は、
以下に書くことも、何らの参考にもならないと思いますが・・
そういう前置きをして、どう取り組むかを述べるなら
( 基本的に、そういう類のから離れた生活を心がけ )
加えて自己本位、肉体本位の情欲の思いが、ふと湧いた際は、先ず
1)第三者的に、その想いと吾(純粋自己)を切り離して等閑的に観る(自覚する)
尤も、これを為すには心でも、ましてや体でもない吾に頻繁に達入できることが、対策の微かな力になるのではないかと考えます。
でもって、これに気づくのすら「 口述書 」等と縁がないと、私たち庶民には、どうにもならない。
この自覚を深めることをし第三者的に、実在意識に飛び出て湧き上がる想い(に、吾をくっつけず)
離して、それを等閑的に観る(自覚する)
等閑視出来たら
次に、そういう雑念妄念の温床になる自己本位の度外れで奔放な連想が温められ膨らんで行動衝動にまで強くなる前に
( 予防的に )
2)´主の祈り´や日本の´祓詞´などに気を向け体を整え脳(眉間の上)〜脊髄軸をスム-ズにして心唱することで、これらをろ過装置にして、みだらな消極連想を、すっと逸らし、想念浄化をする
みだらな想いが温まって強くなる前に和らげ
煩悩を別の創造的かつ発展方向に転嫁するワンクッションの´いなし´に使うということ。
そうしてエネルギ-の逃げ道を作るということ。
もの凄い力を持っている性的エネルギ-を奔放化せず不幸の連鎖に落ち込ませないようにするためにも、
創造方向に気を向け昇華させる際の、ひとつ前の切り替えのワンクッションの工夫として、
主の祈りや祝詞による想念のろ過は、実践しないよりかは幾ばくかは有効なのかもしれません。
ただし
HOW To DOとして有効か?汎用性や再現性も確かめていません。こういうのになると一気に難易度も上がりますし。
´主の祈り´としたのは、私がバイブルに対して、相当になじみ深いというのがあります。
大学や大学院などで神学部を専攻し専門で学んだわけでもなく神父さんや牧師さんでもないのにバイブルが台形になるほど研究するような人は珍しいと思いますけど。
(日本人はバイブルになじみが薄いので知らない方が多いかもしれませんが)
バイブルの´ 主の祈り ´は、歴史的かつ世界的に、最も古く権威がある祈りの1つです。
以前の私のような探究のやり方で、挫折する( 動機がよくなかった<とは思いたくないですが>
読めば読むほど心が煩悶し支離滅裂化し弱くなる )のではなく、
一つの聖句に深く没入し徹する、、というのもアプロ-チの方法としては、ありかもしれません。
尤も、私は何故かバイブルに、ご縁があっただけで
バイブルに馴染みがない日本人の方のほうが圧倒的に多いと考えます。
そういう方は、例えば日本の´祓詞´をバイパス装置にし気をふっと向けて
祈り(祝詞)をバイパスさせて
逸らせつつ心の波動の振動数を少しでも上げ、
自己本位な不埒な連想を長々温めることを脊髄軸を整え祝詞に気を向け黙唱することで逸らして
祝詞の積極的な祈りの言葉の波動に浸り集中することで、不埒な連想を、少しでも、ろ過していく( 想念浄化する )というのは
同時に矛盾したそれぞれのことを想えないという心の原理原則からも、幾ばくか有効かもしれません。
長々書きましたが、結局、この分野は、三大欲求に関わっていて難しい。
決定的な有効打になるのかもわからない。
事実、こういうのは、人知れずの孤独な取り組みが必要です。
集団や大きな組織で、取り扱えるものではないかもしれません。
また善かれと思ってやっても偏差の問題※も出て苦しむことになるケ−スもありますので、ほんと切ないとこです。
とは言え単なるテクニックではなく人の全体的な成長と自己実現を目指すところに動機を置いて自身に寛容に実践することが大事なのかもしれません。