この記事は番外編ですが、インドのヨガ聖者の指摘(後述)が正鵠を得ていて真理なら、
精神生命の心を尊く清くあらせるという意味でも、潜在意識領の浄化と並んで、このサイトのなかで最も大事なページの一つと言ってもよいのかもしれません。
ただし、世相なども関与していることもあり「 統御 」という点で、劣情の制御は最も難しい部類の一つと言えるかもしれません。

 

 

( この記事を執筆した経緯を簡単に紹介しますと・・・)

 

このサイトを執筆している私が潜在意識や集合無意識等を相当に研究をしていて
指導実績も、幾ばくかあるというので、私にメールで相談しようと思った・・というのがあったのかもしれないのですが・・

 

 

(要約すると 「 潜在意識を活用して不倫の恋を成就するなんてのは可能ですか? 」

 

という趣旨の質問をメールでいただいたことがありました。

 

で・・拝見した瞬間に(守備範囲外とは思ったものの)

 

この件について、10代の頃から幾ばくか研究し、自らも危ういと思い避けると申しますか・・生理的潔癖すぎると揶揄されそうですけど
危うい誘惑に陥ること自体避けてきたというのもあったので

 

割と忙しい合間を縫って結構な文字数を使って、理由も含めてメールでお答えしました。

 

しかし、その後、質問者( 相談者 )からメールも来なかったので、そのまま放置状態になっています。

 

 

 

ということで本題に入って結論から先に申しますと・・

 

猥雑な内容を扱っているサイトや動画がインターネット空間に蔓延してるなかで
「これから述べるようなこと等露ほども考えたこともなかった」。とかいう方々にとっては
今回の記事は空気を読まない阿保・・別の角度から言うなら、とんだ石頭・・堅物と批判、嘲笑されてもおかしくない記事になってしまいますが

 

「 潜在意識を活用して不倫の恋を成就するなんてのは可能ですか? 」

 

 

というご相談( ご質問 )については

 

 

「 可能以前 」

 

 

「 ( 悪いことは言わんから )やめときなされ! 」

 

 

 

という見解になります。

 

 

 

尤も自分の人生。生き方は自由

 

「不倫してたっていいやないか!・・バレなきゃいい・・

 

なのに、お前は何様のつもりで、そんなこと言うか!」

 

って返された場合は

 

別に私は何様でもない。
「 ( もちろん人それぞれの価値観があるのも認める )

 

だが、自分が配偶者の立場になって
代理想像をして、そうされたら嬉しいと思うか?
理性だけでなく、直覚的本心良心に照らし後ろめたくなったり氣咎めしないか?」

 

 

少し頭冷やして冷静になったほうがよいんじゃないか?

 

 

 

という私からの返しの質問で

 

恐らくキレられて物別れ・・それまで・・
ってことになる可能性が高いと思いますが・・

 

 

 

 

何を根拠にそんなことが言えるか?という疑問に対しては

 

不倫で溺れるのは、道義的に駄目だからダメ
とかいう、そういうとこから述べるつもりはないです。

 

 

連綿と受け継がれて現代人の思想や文化に影響を与え続けている
仏教、儒教、キリスト教などの高等宗教の教えやインドの聖者のコメントなどから共通項を抽出し

 

史実を敷衍すると少なくとも3000年以上の歴史の重みを伴って自然に湧出して、わかってくる原則と言いますか、にじみ出てくるものがあると思うので、
個人の生き方は自由で、気が付いたら与えられていた環境の中で自ら切り拓いていくものという考えとはいえ、そうお答えしてるということになります。

 

 

 

 

これから、その理由を詳しく述べていきますけど

 

 

世界史の視点から述べるなら

 

世界の文化や科学技術、思想に影響を現実に与え続けているキリスト教

 

この母体となったユダヤ教・・

 

 

このユダヤ教については、幾ばくか独自に研究した範囲で連想されることを述べるなら

 

・形あるものより形なき見えざる知恵を重んじる・・

 

・血脈に並々ならぬ関心が注がれておりストイックで教育熱心、きびしい律法

 

総じて競争に勝ち抜く優秀な子孫を産み育て
繁栄してゆく血脈を紡いでいくことをとても重視してる教え

 

というイメージと印象が強いです。

 

さらに事実(史実)にフォーカスしてみると

 

ユダヤ人は全世界で1200万人をこえてるかどうかくらいの少数派民族にも拘らず
選民思想を保持してるなどにより迫害されながらも
現在、世界経済にも只ならぬ影響を与えている事実が浮かび上がってきます。

 

尤も全てのユダヤ人が徳高く魂が優れて立派だったり、
経済などの実業分野で成功しているわけでもない。

 

民族ということでフォーカスしてもユダヤ人だって、民族的に様々な問題を抱えていて
迫害されてきたユダヤ人が現在はパレスチナ人を迫害している実態がある
というのも耳にしてまして恨みの連鎖と申したらよいのか、
パレスチナ人にとっては悲劇以外の何ものでもないっていう実態があるのも聞き及んでますが

 

 

とにかく事実(史実)にフォーカスし
実業や学術等の分野にスポットライトを当ててみると
実際に商い上手でもあり抜きん出てることを裏付ける実態がいくつも浮かび上がってきます。

 

 

この件について今現在・・21世紀の実社会で卓越しているという一例をあげれば

 

マネジメントの発明者であるピーター・ドラッカー氏もユダヤ人だし
Googleの創業者、フェイス・ブックの創業者も共にユダヤ系の方なのは周知の事実。
それ以外にも、ざっと思いつくものを挙げたら・・
DELL創業者、インテル創業者、スターバックスの創業者、アディダスやプーマの創業者も
ユダヤ系でして兄弟で創業しています。

 

 

映画業界とかもワーナー・ブラザース社の創業者もユダヤ人・・
ハリウッドの映画監督であるスティーブン・スピルバーグ氏もユダヤ系です。

 

女優( 俳優 )で抜きん出た成功しているユダヤ系の方も非常に多いのです。

 

卑近な例では映画ハリーポッターシリーズの主人公ハリー役のダニエル・ラドクリフ氏とか
ナタリー・ポートマン女史など

 

 

 

ユダヤ人( ユダヤ民族 )は経済分野のみならず思想、宗教、政治、文化、科学的発見や
純学問分野においても常に時代の先駆けにもなってる事実もあります。

 

世界史に与えたインパクトというのでは
キリスト教という4大世界宗教の一つを創始したイエス・キリスト・・イエス・キリストがユダヤ人というのは歴史的事実ですよね。

 

キリストの教えは、当時の社会体制に合わない、社会秩序を乱すということで

 

当時のローマ帝国の権威にも、おもねって自己保身に走った当時のユダヤ社会の宗教的権威者(大祭司などの祭祀階級)、
有力者( 既得権益層 )に煙たがられ宗教的権威や位置を失うことを恐れた故なのか、
客観考証は、今後研究が進むと思いますが

 

歴史的事実ではっきりしていることは

 

キリストの教えを純朴に信じる小集団に対し当時の権威を持つ権力者、有力者たちは異端者のレッテルを貼り
素朴に信じる小集団はカルト認定され、集団苛めと言ったらよいのか、いわゆる「 異端集団 」で苛めの対象だったということ・・

 

 

 

紀元1世紀の初期から4世紀頃にキリストを敬愛し純朴に信仰した生活を心がけていた人たちは、
( 言葉がよくないですが )きちがい集団とみなされ
敵視され、すさまじい圧迫と迫害を受け続けました。( その名残がカタコンベでしょう )

 

ですが、にもかかわらず、その中でも生き残り、変革する力を培ったせいか、なんと驚くことに4世紀末にはローマ帝国の国教になり、
社会統合の力として用いられるようになって、やがて世界に波及していきました。

 

ある意味、理解されるまでに400年もかかった・・・知識やテクノロジーが飛躍的に進化しても、
ヒトの内面や本能は、仏教的には業が深いと申したら良いのか、そうそう簡単に変わるものではない。
表層的知性とは別次元の無垢で純朴な内的知性が拓かれておらず、霊性心は進化の最終段階で形成されたものだからなのか、未開発で霊性が暗かった・・
純真無垢な霊性を涵養させるのは、簡単なようで難しい。
こういう分野は、ぼーーっと、世相に流されるままに過ごしてたら、とても時間がかかると言うことも出来るのかもしれませんが・・

 

またキリストの教えは、中世時代を経て16世紀初頭に、その解釈が、大きく動きました。
カソリックの腐敗や教皇権威の失墜から権威やカソリックの中央権力から離れた腐敗刷新の精神復興運動として
一人ひとりがバイブルを介してキリストおよび神(※無用な誤解を避けるためにキリスト教で定義されるところのとしておきます)に繋がることが出来るとしてプロテスタントが生まれたわけです。

 

しかしプロテスタントも分派に分派を重ねて、衰退しているように見えます。

 

 

ですが、そうは言っても琵琶湖の1/4にも満たないガリラヤ湖畔周辺で2000年以上前に始まった、
あまりにも小さな精神復興運動・・・しかも、当時、この精神復興運動に賛同していたのは

 

(こんなこと書くとクリスチャンの方々にブチ切れられて怒られるかもしれませんけど)

 

豪放磊落だが魚も取れない漁師のペテロや
ストイックだが、あまり高い地位もない純朴なゼベダイの子のヤコブなど・・
どう贔屓目に客観的に見ても、吹けば飛ぶような集まり・・

 

ある意味、キリストの言行、御言葉に惹きつけられたのは、あの当時、地位や名誉もなく財産などもないが霊性心が高度に啓発された
天風哲学的には純真、純粋な霊性心が、よく機能していた霊性階級の方々が、スパークできたと言えるのかもしれませんが

 

それが、後に、かつてキリストを迫害していたパウロが回心し、その小さな集まりに加わって小アジア(Anadolu)を経由し世界に波及し
キリストの信奉者は、今や約23億人(うち11億人がカトリック教徒でプロテスタント諸派が5億人、東方正教会、イギリス国教会など)にまで膨れあがっています。

 

尤もキリスト教徒が迫害のなかで勢力を拡大し、社会を変革し力を持つにつれ
教義上は、イエス・キリストは世の罪を背負ったということにはなっていてもキリストを十字架刑(磔刑)にしたユダヤ民族に対する嫌悪を抱く土壌が広がり
それが暗黙の反ユダヤ主義としてキリスト教国の多かったヨーロッパで噴出していった歴史もあります。

 

 

そういうキリスト教西欧社会の風土のなかでキリストを極刑にしたユダヤ民族が、キリスト教社会の中で選民思想などとは別の理由で敵視の対象になっていきました。
苛め迫害していた方が、今度はいじめられると申しますか・・・
そうしてベニスの商人などの文学作品に描かれるほどユダヤ嫌悪の雰囲気が蔓延していった史実も一方であります。

 

善いことしかしなかったイエス・キリストに酷いことしたユダヤ民族といった構図がつくられ
イエス・キリストはユダヤ民族から出た方なのに、なぜか世の中でよくないことがあったらユダヤ人が悪い・・みたいな雰囲気まで蔓延し
ユダヤ人はマタイ福音書27章25節で「(キリストを世の秩序を乱す極悪人と見なして十字架にかけた)血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。ということを当時のユダヤ権力層、当時の宗教的権威も含めた知識層、群衆までもが望み、そうした。
だからユダヤ人がキリストの十字架の血の責任をとることは当然だ!と未だに考え、憤るキリスト教信徒もいると聞いたことがありますので根深いです。
ある意味、ユダヤ民族のご先祖様が、キリストのような、あんな聖者を極刑にした報いを、その子孫が負ってしまったという観方も出来るかもしれませんが

 

それにしたって( 後述しますけど )ユダヤ人はヒトラーによって数百万人がホロコーストで犠牲になっています。
だから、バイブルを根拠にしても、その血の責任は、もうとってるだろうと私は個人的に思うのですが、現代ですら、未だに、そう考え憤る人が、少なからずいるくらいだから、当時のキリスト教西欧社会におけるユダヤ嫌悪は、キリスト教が勃興すればするほど激しくなると申したらよいのか・・相当なものだったでしょう。

 

なんかあったら悪いのはユダヤ人・・戦争に負けドイツの国が貧乏になったのもユダヤ人のせい・・
陰謀論も相まって経済を含め世の中(ドイツ国内)が悪いのはユダヤ人のせい・・という雰囲気も燻っていたとされており
そういう風土と構図のなかでドイツ民衆を扇動し、ユダヤ人を敵視することで、´ われわれ意識 ´を持たせて、ドイツを、ひとつにまとめて大衆支配をしようとしたのがナチス・ドイツと言われています。

 

ナチス・ドイツは当時のドイツ国内に燻るユダヤ人への反感(の雰囲気)を利用し、社会学的には「ユダヤ人を内敵とし差別的に扱うことで」
ドイツ民衆を扇動し、ひとつにまとめようとしたと観ることも出来るかもしれません。

 

そうして世論の支えもありヒトラー、ナチ・ドイツはユダヤ敵視政策、経済的に殺す(ユダヤ人のドイツ国内における職を奪う)政策等を次々と実行していきました。
しかし、そういう人非道の政策に対しドイツ国内のユダヤ系以外の住民や周りのキリスト教国は無関心、傍観者的態度だったとされています。
そういう傍観者的な無関心が、 ナチスのクリスタル・ナハトなどの凶悪な事件を起こし、その事件の扱いについても、当時のローマ教皇はユダヤ人迫害を黙認したとされており、とりわけ国内のナチス以外のドイツ国民も、それを非難するどころか無関心だったということ。そのことがナチスの横暴を黙認し許すことになりドイツ国内において、この事件が導火線になって、ユダヤ敵視政策が、さらに勢いづいていきました。そういう一連の小さな出来事、要因の積み重ねがユダヤ人に対する迫害に拍車をかける温床となったとされています。

 

そうして、世界史上、これほど悪辣なことはないとされているホロコースト(数百万人のユダヤ人の犠牲)に至る道筋を開いてしまった・・という指摘もされています。

 

 

 

さらにつっこむなら本当にイエス・キリストの精神を継承した国なら、あんなことはしないんじゃないか?
ってくらい阿漕で理不尽な奴隷売買や植民地支配をして先住民たちを虐待してきた史実が
カソリックやプロテスタントを問わずヨーロッパのキリスト教国の中にもあります。
真理に国が従うのではなく真理が国の都合で歪曲され順応させられ変質させられると申したらよいのか‥(-_-;)

 

 

( 私たちの住む日本だって歴史的にアイヌ民族や琉球民族を虐待してきた史実があるので、
強くは批判できない・・とも思っていますが )

 

ですが、西欧キリスト教国が、歴史的に、そういう深刻な問題を引き起こしてきた史実はあることを踏まえても・・

 

世界的に見たら世界人口の約1/3・・
3人に1人が何らかの形でユダヤ人であったイエス・キリストを敬愛し信奉している・・
という驚異的な統計事実、実態があります。

 

ですのでユダヤ人が世界史に与えたインパクトは、キリストという、たった一人の人物だけをピックアップしても
巨大なものがあるのは、否定しようもないでしょう。

 

 

さらに近代では、ヘーゲル哲学を援用し資本主義による労働疎外や社会の矛盾を世の中に見て
資本主義を真っ向から否定、批判した共産主義思想、理論を提示したマルクスもユダヤ人です。

 

( この思想の好き嫌いはさておき個人的には、資本主義という経済活動の形態も問題が多いとは思ってますけど、この共産主義理論は、マルクスが否定した各個人一人一人の霊性が高度に発達しないと、この思想と言いますかシステムは理想論で無理があり過ぎ・・

 

マルクス共産主義は、人を物として観ていて、それだけで恐ろしい。
また、なんでもかんでも平等と理想を謳いあげているが実態は、例えば、某国なんかは恐ろしいほどの階級社会で機会の平等すら担保されていない。

 

別の視点から述べるならマルクスは人間の奥底に潜む強欲やわがまま放題、怠惰を誘発する不要残留本能心等を甘く見過ぎ・・
現段階でも現実的に無理だろう・・・・・資本主義も問題が深刻ですが、霊性を否定した共産主義のほうが遙かに弊害が大きすぎる・・というのは実態を見ても明らか。

 

 

ですが、それを差し引いてもユダヤ人の一人であるマルクスの主義、主張が国を動かし
近世の世界史にインパクトを与えたのは間違いない事実でしょう )

 

 

 

科学の分野において俯瞰して観ても
ユダヤ民族は相対性理論を発見したアルバート・アインシュタイン博士や
現代のIT社会を支えるコンピュータの生みの親とされている
フォン・ノイマン博士らを輩出しています。

 

 

 

さらに細かく言えばフロイト博士もユダヤ人ですし

 

「嫌われる勇気」という本の出版で日本で一躍有名になったアドラー心理学の
アルフレッド・アドラー氏や実存分析という新たな心理手法を編み出したV・Eフランクル氏もユダヤ人です。

 

 

先に挙げた実業分野や科学、哲学、心理学などの分野は、そういう目で観たら、そう見える・・
というバイアスがかかる恐れがあるし

 

全てのユダヤ人が立派なわけでも
抜きん出てるわけでもない・・それに、この考えが偏っていくと優生思想につながっていき危ういというのも承知していますが

 

そういうのも賢明な読者は、ご了承いただいてるものとして述べることとし

 

 

科学的発見や純学問分野における卓越性を全体傾向として裏付ける
客観資料( 事実 )・・指標の一つとして
バイアスがかかりにくいノーベル賞にフォーカスするなら

 

ユダヤ人は世界の人口の僅か0.2%に過ぎず
統計的事実にフォーカスするとユダヤ人( ユダヤ系含む )の人口は
日本人の人口規模の10%以下という事実があります。

 

にも関わらずユダヤ系の方のノーベル賞の総受賞者数は日本人の受賞者数と比べて5倍以上

 

という事実から観て、これは異様な統計的実態と言わざるを得ません。

 

 

 

これはユダヤ民族と言うよりユダヤ系アメリカ人が凄いのだ・・
ノーベル賞を受賞したユダヤ系の方の中でも60%のユダヤ人がアメリカ国籍だ!
アメリカの教育によるものだろうという説もあります。

 

もちろん、教育は大事ですが、それだけとも言い切れない。

 

なぜなら人口900万人に満たないイスラエルは1948年に建国後
1948年以降で12人のノーベル賞受賞者を輩出していますから。

 

アジアの中で突出している日本人ですら人口1億2千万で
26人であるにもかかわらず・・です。

 

追記するなら2016年のイスラエルの出生率は3.11で
同年1.44だった日本の2倍以上です。

 

以上のようにクドクド述べてきましたが

 

私もユダヤ人( ユダヤ民族 )のことは、
全てのユダヤ人が立派なわけでも抜きんでているわけでもないというのは弁えた上で

 

それを差っ引いても全体傾向として豊かな発想力、創造性豊か・・
交渉上手で商いにも秀でてる方が多いし
独立心も強く心の強かさや少数精鋭的な突出した優秀さが目立つ方が多い
という事実があることから興味を持ち、

 

なんなんだこの民族は??‥と思い

 

瞑想を深めながら歴史的な史実を俯瞰し探索したことがあって

 

これが今回の質問の、より中核的な根拠になるところの答え

 

( 人間は好きに振舞える天与の自由意志が与えられてて
何をしようと、どう振舞おうと黄金律さえ侵害しなければ無難に生きられる・・
 ただし好きに振舞えるとは言え
静謐な心の状態だと聴きやすくなりインスピレーションの本源である本心・良心の囁きに心の耳を傾けず
本心良心の警告を無視して不倫成就などの邪な欲に溺れ不道徳な行為に突っ走らせて原則に反し心の深いとこを更に汚すべきではない)

 

 

ってことの回答の理由を裏付ける骨子中の骨子の一つになるのですが

 

 

この特殊な民族の民族的なアイデンティに当たるファクターを言語以外のとこで探ろうと
その源流を辿りに辿っていくと現代から遡る事、おおよそ3000年以上前に
エジプト新王国の支配、隷属を脱出した
ユダヤ人グループにおいて民族的指導者になったモーセという人物に行き着きます。

 

( もちろん、こんなことは指摘するまでもない・・
世界史を、少しでもかじった方なら、ご存知の方も多いと思いますが・・ )

 

そのモーセが40日にわたる長期の断食を2回も為さっていた期間中に
入神状態になって高次の啓示を受けて定めたとされている
子々孫々の繁栄のために倫理的に腐敗した周辺民族の風習に従わないための
ユダヤ民族が守る10の約束事が提示され、そのなかの一つに

 

「 性的不道徳を避けなさい 」

 

という約束事が、事実として、きっちり定められているんです。
( 出エジプト記20章 )

 

これもバイブルのなかの旧約のほうを何回か読んだことがある方なら知ってることかと思いますが

 

ユダヤ民族の一人だったモーセという預言者( 先覚者 )の口を通して
民族的に警告されています。

 

 

このように今から3000年以上前ですら、腐敗した周辺民族の風土に染まらず
不幸、没落に陥らないように・・ということで
幸福、子々孫々の繁栄の公理として定められて
この民族的警鐘はユダヤ人の民族的アイデンティティとなって
国家興亡史をこえ時代を越えて鳴り続けて

 

ユダヤ人の一人だったイエス・キリストの生き方・・
崇高な精神性を模範とし
それを見習おうとするキリスト教信徒たちにも強い影響を与えました。

 

その教えの中には、(性欲に溺れ、その奴隷にならぬよう)
実際の不貞行為に止まらずマタイ伝5章27節〜29節にもあるように、

 

キリストの教えを、幾ばくか比較研究したところユダヤ教の外面的不貞への戒め、警告よりも
その教えは更に高次元で(ある意味厳しい)内容でして
内面的不貞(内面的穢れ)への戒めへと、その純度を高めています。

 

 

そうしてその教えは( 分派に分派を重ねてるとはいえ )世界宗教のひとつであるキリスト教として、
いろんな国に、その教えが広まって高い精神性を伴いつつ現代にまで、その警鐘の響きが引き継がれて
鳴り続けています。

 

 

IQ、EQともにずば抜けて高かったと言われてる
今から2500年前くらいに心の働きを微細に観察し
苦を免れるための真理を追究したインドの釈尊も
苦行は捨てたけれども人間のすべての苦悩を離れた寂静の境涯を養うために
清くて純粋であるための行動規範、指針として
性的放縦、色欲の貪りに陥る弊害を指摘し、これを戒めています。
( 仏教の教えで在家信者が守る五戒のひとつに不邪淫戒というのがあるのは、あまりにも有名ですよね )

 

日本の神道において古来から伝承されている中臣の祓においても
農耕妨害、傷害殺人と同じく劣情を奔放にし享楽本位にすることを重大な罪(包み)として扱っており
そういう行為が祓いの対象になっているのは
祝詞研究を含めて、この分野を実践研究している方でしたら周知の事実かと思います。

 

さらにヒンズー教の源流であり世界の宗教、哲学、スピリチュアリズムにも
隠然とした影響を与えているヨーガにおいても
その流れを汲んだパタンジャリという聖者によって
八支則(はっしそく)という8つの段階を解いた基本的な教えが
紀元4〜5世紀頃、今から1500年くらい前に説かれたとされていますが

 

物欲、食欲、名誉欲、権力欲などのうわべの表面的な欲望と快楽に惑わされ
バランスさせずに後味の悪い感覚的歓びに振り回され心を荒廃させないよう統御することが薦められていることは
この分野を学ぶ方ならご存じの事と思います。

 

 

それを証拠に自分自身を純化して自らの内奥の純粋な本質に気づき
精神性を高め心の雑菌を処分、漂白し純化していくための鍛錬を行う上での最低限の生活原則として
性を乱さずパートナー以外の異性とむやみに性的関係を持たないことが
八支則の3番目のヤマ:禁戒の項目として定められています。

 

それが内的探求をする上での大前提として据えられ
行動規範の一つになってヨーガ修行の伝統として綿々と受け継がれているんです。

 

 

さらにダメ押しをするなら

 

私がよく読んで研究していてブログでも度々取り上げているインドのヨギ聖者が執筆した本で
あまりにも崇高な内容のため、段差を減らす無難なルートを模索するなど研究資料にしている本がありますが

 

そのヨギ聖者の執筆した本(シリーズ本)によると
「性欲の奴隷になることは、健康や、自己制御や、心の平安など、
幸福の条件をすべて失うことになる」。 という指摘もされてるくらいです。

 

 

この件については、ビジネス書の一つである「7つの習慣」やナポレオン・ヒル博士の著書等といった世界的自己啓発書からもアプローチできます。

 

 

私のサイトをお読みになるような向上心の強い方でしたら
スティーブン・R・コヴィー博士の「7つの習慣」も読んでいる方は多いと思います。
私も、この本は数十回読んでいまして「 7つの習慣 」から紐解くなら

 

この本の中でコヴィー博士は映画監督セシル・B・デミル氏が、氏の代表作「十戒」のなかで原則について述べた以下の言葉

 

 

 

「神の律法(原則)を破ることはできない」。
それを破ろうとすれば自分自身が破れるだけだ。

 

という言葉を敢えて引用しています。

 

 

(※´ 神 ´という言葉は、それぞれの国や文化、人によって辿ってきた道や背景がそれぞれ異なるので
非常に誤解を受けやすい言葉でして、私自身としては本音は引用したくないですけど )

 

 

 

またコヴィー博士はフランクリン・コヴィーという社名をつけてもいますが
これは、アメリカ建国の父であるベンジャミン・フランクリンから取ったともいわれています。

 

ベンジャミン・フランクリンは22歳の時に「道徳的完成に到達しよう」と発願し、
その計画を具体化するために3年かけて練りに練って
13徳(価値観、生活綱領)に、まとめあげた表を作り上げました。

 

そして、小さな手帳を作り、その生活綱領(13徳)を1ページずつ割り当て
1週間のうちに1つの生活綱領・・例えば節制などに集中するなどの工夫を凝らし
1日1日、1週間ごとの生活を正すための工夫をして習慣化に努めていったことでも有名です。

 

フランクリンは、その13の生活綱領(13徳)のひとつに´純潔´をあげていまして

 

これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、又は自他の平安ないし信用を傷つけるべからず。

 

という但し書きを添えて遵守に努め労働の中で己を規律し磨き事業(仕事)の労苦の中に喜びを見出しながら、まい進したと聞きます。
このような厳しく己を律する精神がアメリカの発展とプロテスタントの倫理の根っこで産業資本家の成長を内側から支えたということを発見したのがマックス ヴェーバーでしょう。
ヴェーバーの著わした「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、あまりに有名です。

 

 

このようにコヴィー博士が、「 7つの習慣 」という著書で、バイブルの十戒から´原則´を引用していることや社名の謂れからも
氏が人格主義による成功の復権のための原則の一つとして
バイブルの旧約の十戒のなかの´色欲に耽ることを避けること´
これを誠実であることを支える´原則´と捉えており前提にしていると観ることも出来るのではないかと・・

 

それ以外にも、例えば同書の中でコヴィー博士はバイブルのうち旧約の逸話のなかでも
非常に劇画的なことで有名な´ヨセフの物語´を引用して7つの習慣における´原則´の解説を試みています。

 

バイブルをよく読んでいる方でしたら
兄弟たちから妬まれ疎まれ穴(井戸)に、つき落とされ死んだことにされてしまい

 

その後も波乱の人生を送ったイスラエル建国の父であるヤコブの末子のヨセフのことはご存じでしょう。
ヨセフはモーセよりも、さらに昔を生きた方だしバイブルのうち、旧約の方を読んだことがない方のほうが多いと思うので
ざっと、ヨセフのことを述べるなら
ヨセフは、他の兄弟たちにも増して父親のヤコブに愛されていたことも理由とされていますが
それだけでなく、言動も生意気な面があったことから兄弟たちに憎まれ穴に落とされ置き去りにされています。

 

しかし、その後、奴隷商人に助け出され、売り飛ばされ、エジプトの高官の下僕となりますが
仕えたエジプトの高官に、その堅実な仕事ぶりが認められ、やがて財産管理を任せられる程になります。
ところがヨセフは、曾祖母に当たるサラ( アブラハムの正妻 )や祖母のリベカ( イサクの妻 )、母のラケル( ヤコブの妻 )が、いずれも容貌に優れて美人だった血脈を受け継いだせいなのか定かではないですが
大変な美青年だったこともあり( 創世記39章6節 )
下僕として仕えていた高官(主人)の妻から不適切な性的誘惑を執拗に受けるようになり、その誘惑を幾度もヨセフが退ける件(くだり)があります。(創世記39章7節〜10節)
聡明なヨセフだったら誘惑を拒絶することで使用人としての立場や仕事をするうえで
非常に困難な境遇に陥ることもわかっていたと私は推測しますが
当時、身分は最下級の奴隷でもヨセフの心は気高かったということでしょう。

 

ヨセフは自らの信念と価値観を貫き執拗に誘惑してきた主人(高官)の妻を拒絶し続けたために、その妻に逆ギレされ、あらぬ罪(濡れ衣)を着せられ牢屋に落とされてしまいます。

 

しかし、その後、非常な不遇から不可思議な機縁で牢を出ることとなり
夢解きなどを経てエジプトの宰相になり、エジプト国内の領民だけでなく、
自分を憎み殺そうとまでした兄弟たちを含めた自身の家族をも飢饉から救ったことが
バイブルの創世記に書かれています。( 創世記45章 )

 

これは、´ヨセフの物語´として、バイブルを読んでない方でも、ひょっとしたらご存じの方もいらっしゃることと思います。
この逸話からヨセフは、万学の祖と称され、より善く生きること(徳)を説きヘレニズム文化の源流の一人になったアリストテレスよりも
徳の実践という面でHow to sayではなくto Doを貫いた御方という点で遙かに徳のある畏敬に値する人物だったということもできるのかもしれません。

 

( 尤も、それぞれ生きた時代圏が違いヨセフが紀元前17〜16世紀くらいを生きた方で、アリストテレスが紀元前4世紀の時代圏の方です。
なので並列比較は、無理がありますが
アリストテレスやヨセフの逸話が事実だとして、誘惑を避けるのに、どちらが、より難しかったかというと
アリストテレスより1200年以上前の時代圏で生きたヨセフのほうが、その当時の置かれた弱い立場や身分、その他の状況から考えて、
誘惑を避けるのは、はるかに難しく厳しいでしょう )

 

こういう逸話を敢えて紹介し引用していることからもコヴィー博士が
「色欲の奴隷になることは、健康や、自己制御や、心の平安など、
幸福の条件をすべて失うことになる」。 という原則を暗に示していると見ることもできますから。

 

 

なお、より善く生きる徳を説き、知性を磨き万学の祖と称賛されながら色に溺れたアリストテレスの逸話から、いくら理性的知識を培養し強化しても本能心の誘惑のほうが強く、
どうにもならなかったという人間の弱さを露呈した格好になりますので、
知の権化のアリストテレスが色欲に負けたという逸話も、見方を変えれば天風哲学を強力にバックアップする逸話になると言えるのかもしれません。

 

 

 

7つの習慣以外にも例えば成功哲学の祖であるナポレオン・ヒル博士の著書にも

 

類似した内容のことが述べられています。

 

ヒル博士の書はHow to Sayで、弱いところがあります。
本能心の統御は、そんな簡単ではない。博士の助言では弱いとは思いますが

 

一つの指針として

 

感受性も超えた霊性満足の欲を価値高いものとして認めて、そういう欲に転化させ振り向け
そういう方面の大欲を燃やしたり欠点克服や霊性開発に振り向けたり
別の夢中になれる学術、芸術、創造的工作などの創造的な愉しみを見つけて
自らを没入させるほど浸り打ち込んで悦びを味わうほうが平凡ですがよいと考えます。

 

自身の研究や国家興亡史を俯瞰しても

 

( 研究という点では、さまざまな高等宗教の宗派を超えて縦断するというのはかなりの負担と労力がかかってるわけで
私の場合はバイブルは、何の因果か十代の頃から読んでいて仏典ほかの他の聖典は二十代の頃に運命的に、とても苦しいことが続きに続いて、
精神的に弱り果て、困り果てて、やむに已まれず研究したわけですが )

 

バイブルや仏典・・インドのヨガ聖者を筆頭とした形而上の書物、世界的な自己啓発書など・・
探求すればするほど愛欲に囚われ邪欲を燃やし不倫に身を焦がし、異性に溺れることの危うさ・・

 

長〜い目で不埒な誘惑に負けて動物本能の赴くまま不貞行為に走って
心を尊からざる状態にし、そういう生活を続けた方々の生活史実を追うと
一時的には勢いがあって、よく見えるけれども因果の法則を動かして、かつ心が曇るせいか高次の判断力を失って結局没落一直線・・という図式が浮き彫りになることは事実確認できます。

 

また国家の衰亡史を俯瞰して観ても国の中枢部が性的に乱れ爛れると、
あらゆる面で、国がおかしくなるという図式も変わらないように観えます。

 

 

さらに、言うなら

 

なぜ?WHY?現代にまで影響を及ぼしていて国や地域も違うところが発祥の宗教のなかでも世界的な宗教にまで廣まったキリスト教や仏教、儒教などの高等宗教・・日本においては神道の中臣の祓あるいは古代インダス文明にまで遡及できるヨーガの流れを汲んだヨガ哲学においても地域も時代も違うのに・・

 

ずーっと根を辿れば、まるで方位磁針が常に北を指し示すように

 

何千年も前から主に高次のインスピレーションを受けた聖哲の口を介して
性的不道徳を避けることが警告され続けてる事実があるのでしょうか?

 

歴史の中には、そういうのに無頓着で放縦な´時の権力者´と言われる方たちも歴史上にいたわけですが
そういう権力者たちによって、塩昆布みたいなことを書いてるものを不都合だとして抹消し
焼き払い焚書にできなくもないはずなのに

 

どんな人間的権力を用いても人間業では決していかんともすることができない。

 

 

 

どんな時代を経ても・・世の中が乱れて国家興亡、栄枯盛衰繰り返しても

 

警鐘の鐘として地球規模で鳴り響いてるのでしょう??

 

もちろん性というのは神聖なもので、

 

子孫繁栄とパートナーとの良い関係を保つ為の大事な要件になるのは事実ですし

 

生命生存の欲の中でも性欲というのは食欲、睡眠欲と並んで最も強力な欲望の1つになっています。
ぶしつけな言い方をするなら性衝動が原動力の一つとなって世の中が動いていると言っても決して言い過ぎではない側面もあります。

 

 

しかし、この欲に振り回されその度が過ぎていくと刹那的になり
人間としての人格を貶めて魂のレベル、精神レベルも低下して

 

高度の判断力を乱し生活も荒んで乱れ幸福を乱しがちになる。

 

 

 

ごくごく稀な例外として正妻が、お家の断絶を防ぐために、それを許していて公認で、
かつ、お妾さんと正妻との仲が非常に良いなら、ダメージは少ないとも言われてますけど
そういうのは例外中の例外で

 

享楽本位にし、あちらこちらに愛人を作っていったら自分だけでとどまらず

 

血脈を継いだ子々孫々の繁栄にも、ある負の因果を刻む可能性がある。

 

その反対に、こういう人として平凡で、ごく当たり前の・・
別にユダヤ民族じゃなければ守れないという事では決してないことを
守る( 不適切で人倫に反した性的誘惑を退け実意丁寧で平凡な生活をする )だけでも

 

平凡な幸福と次世代へもバトンタッチされる形の繁栄のレールに乗っていきやすい
というので守ることを勧奨し、破ることへの警告をするために

 

最も古い書物群のなかでも世界的な権威のあるバイブルやその他の聖典においても
方位磁針のように聖賢たちの口を介して発信されているという観方もできるのではないでしょうか?

 

 

 

人間は性的不道徳に「 溺れる選択の自由および愚行権 」も「 溺れない選択の自由 」もあると見ることも出来るわけで

 

 

 

私もこういう記事を書く上では自分が正しいと信じることは、きっと相手にとっても正しい・・
そう思う、思い込み自体が間違いの元
ということで慎重に執筆してまして、そういうのは肝に銘じて書いてるつもりです。

 

 

 

 

 

ですが、それを差っ引いても

 

自らの心の深みの純なとこに尋ね長期的視野で視て歴史( 古典 )からの教訓に照らし
かつ史実や子孫へのインパクトに照らしても邪欲を燃やし享楽本位、無軌道に性を奔放化させるのを避けるほうがよい・・

 

ユダヤ教、キリスト教、仏教、儒教とか関係なく
( ※仏教、儒教、キリスト教等高等宗教とされ高度の哲学性を帯びるに至った世界宗教も
抽象化し俯瞰すると、まるで方位磁針のように戒めていますから、危ういのは予想できるでしょうし・・ )

 

世界で最も古いにもかかわらず

 

廃れることなく、いまだに語り継がれてる書物や史実、世界的自己啓発書等から学ぶなら

 

あるいは、インドの聖者中の聖者であるヨギの指摘が真理であるなら
こういうのは、みんながやってるからといった多数決( 多勢に無勢 )
あるいは、世論や社会的支持が多いからとかいった
時代の空気によって決まるものでもない。

 

潜在意識を、そのような目的に用いるべきではない。

 

危ういので避けるべき・・という考えでいます。

 

 

 

 

長い目で見て自分を真に尊び配偶者および家庭を大切にし、相手の家庭も尊重するなら

 

歴史を俯瞰した史実や原則に照らしても

 

過ちに陥るような状況を作らないように普段から努め、心を客観的に捉え
仮我を支える心の要素である理性心、本能心、や自我(仮我)を超えていて経験や欲望・衝動等から独立しても働き得るく霊性心(本心・良心)をよく識別し
自己保存欲求を支える食欲、睡眠欲、悲しみ、怖れ、嫉妬などの不要残留本能由来の毒汁のような不快な感情情念の整理や陶冶と併せて破滅の要素になる劣情なども
本心・良心同様に経験や欲望・衝動などから独立しても働き得る意志力( Will Power )を良心に沿わせながら働かせ整理しつつ・・(同時に)とても強い力を有している不要残留本能心由来の邪欲、邪心傾向を削って、より善く生きる心がけを怠らないようにする。( とても難しいことですけど、本心良心に感謝していったら、この機能も少しずつ強くなっていきますから。感謝されたらパワーをもらえますよね。自分自身<一人一人>に備わっている本心良心も同じと考えることも出来るかと )

 

劣情が厄介なのは、一時的とはいえ刹那的な快楽をもたらすことでして、しかし長い目では生活を乱れさせる破滅的な要素になる類のものと観照できますので瞑想や奉仕、見返りを求めない親切などで新しい悦びの回路を作るということ。

 

私も、この分野は、まだ研究段階でして

 

ガンジーの自叙伝などを読んで、性的放縦の箇所を参照すると

 

 汚れを意識している精神は、断食でも清められない。食事を変えても、それには
効果はない。強烈な自己点検、神への服従、それから最後に恩寵による以外、精神から情欲が根絶されることはない。」と、その著書でガンジーはコメントしており
一筋縄でいかないことは伺えます。
キリスト教哲学者で中世最大の教父と言われているアウグスチヌス研究も、ずいぶん以前に、嵌ったことがあって、アウグスチヌスは、自身の性的放縦に死ぬほど悩んだ経歴を持つ方でして、私は、この方の著書を相当に真剣に読んだことがあるのですが

 

( 文献を読み漁った自身の体験から )その主張を要約すると、人間の自由意思(自由意志)は、惑いやすく恩寵によらなければならないとしています。

 

ですのでアウグスチヌスも、性的放縦についてはガンジーと同一見解のようです。

 

このように内的自己鍛錬の巨匠とされるような方は恩寵によらなければならないと主張してるわけですが

 

私の場合は、(畏れ多くも)お二方と違って、(恩寵によるところが大きいというのは理解するにしろ)これを全面的に認めてしまうと恩寵頼み
ある意味、これを裏返せば、不公平が拡大するという観点から

 

意識の流れの中で、時に不意に飛び出してくる放縦に向かわせる陰気な快楽的連想自体は防ぐことはできないにしろ
それを薄める努力や劣情が生活の中で肥大化し生活を乱すことなく純朴な生活を心がける努力の条件の積み上げは、しないといけないのでは?と考える派です。

 

 

こういう考えの方が多いか知りませんけど・・

 

 

その一方で世相なども大いに影響し
ご先祖由来の集合無意識なども影響するだろうし個人の努力だけでは、最早限界があるのかもと考えてるわけですが

 

放縦傾向のある衝動を意識の流れの中で弱め薄める際に( 潜在意識の印象貯蔵庫のお掃除や「成功の実現」に書かれている自律神経の立て直し等によって感性が啓発されるとともに渙発されやすくなる)心を超えたところから発祥する意志力

 

 

この意志の力は、天風哲学では、本来は心を扱うのに最高の実力があるものの一つとされています。

 

しかし、その一方で、表面意識に思考原料を提供する、表面意識の奥の潜在意識領( 印象貯蔵庫 )が、破滅的で消極的な思念要素で汚れると

 

がくーんと意志の力が落ちてマイナスの潜在意識に振り回されるがままの心に追い使われる生活を余儀なくされるということ。

 

自覚できる表面意識の奥の潜在意識の印象貯蔵庫が、気を散らせ滅入らせ運命を下降させ、
日々を新鮮に感じさせなくする消極的で破滅的な消極因子で一杯になると
知覚の窓が曇って人生は苦の娑婆だと、感じたくなくっても、そうとしか感じられなくなります。

 

かつ自律神経系も調子を崩してしまうと言われています。

 

しかし、暗示感受習性の高まった寝入りばなを、出来るだけ綺麗な気持ちで寝入るようにして、潜在意識領のお掃除を心がけて、
普段から三勿三行の行為集中の生活を心がけることで潜在意識が洗われ自律神経系も調子を戻し、この意志力が渙発しやすくなると

 

感覚や経験、衝動、感覚的欲望も超えた力として発動し
心身を統率し進化向上へと向かわしめる最高権力の実力として心に対して、その真の力を振るい
状況を打開するとされています。

 

そうして、日々が常に新しく新鮮に感じられるようになり、(意志の力が出やすくなって腹が出来てくると)
むやみやたらな事では激情的に怒ったり恐れたり悲しんだり落ち込んだりしなくなって
生活自体が身ぎれいになって心機転換が実に絶妙になるとされています。

 

 

その一方で意識の流れの中で、心を虚ろにしていると脈絡もなく意識の深いところから世相の影響もうけて飛び出すことがある劣情の連想も、一般に一筋縄ではいかない取り扱いの難しさと申しますか、心内の欲望や流れる意識の中で非常に強い力を持って人の思いを束縛するとされています。
というのも、

 

欲望、とりわけ性的な欲望は自己の意志を超越した押さえがたいものであり、人間存在の内部にある「異質なもの」として現れる。
1884年の『さかしま』(渋澤 龍彦、河出文庫)以来、ユイスマンスの関心の中心には、内なる他者とも言えるこの性欲の問題が常に存在していた。
( 築山和也 著 ・ 2003 ? Title. ユイスマンスのデレクタチオ・モロサ. Sub Title. Delectatio morosa de Huysmans. Author. 築山, 和也から一部引用)

 

 

という記述も見つけることが出来るからです。

 

ですので、本来的には最高の実力がある意志の力も、
時代の底流を流れる世相の影響を受け弱くなっているので
努力は努力でも弱くなった意志の力を底支えするのに暗示の研究や祈りおよび瞑想を研究し、わからなくなって、関係が薄れてしまった、かたじけなさや畏れ多さを誘発せしめる根源(天風哲学でいうところの根本主体=宇宙霊)をより深く知り体験したいという欲を少しずつ強めて心を制御するための上からの助けを頂く形を取るという方法もあるのかもしれません。
そうして体験を深めつつ高品質な悦びを耕す心がけも必要なのかもしれないです。

 

( こういう分野に強い関心があって取り組む気がある方が悩んでいるなら‥という想定で書いてます。そもそも、どれだけニーズがあるかもわからないし、世相上、こういうことを書くとアウェイになるのは了解していますが、こういう塩昆布みたいなことを書く馬鹿も世の中には必要でしょう)

 

私は、たまたま、そういうのに並々ならぬ強い関心があって10代から研究してきた関係(背景)もあるので、敢えて書いてますが

 

この意志の力を内的神秘探求に振り向け上質で繊細な喜びを耕しつつ少しずつ
不要残留由来の劣情の衝動や妄想念を薄め弱めて少しずつ振り切るルートにも可能性があるのではないかと考え探求しています。

 

 

なお神学大全を著わした聖トマス・アクィナス・・聖トマス・アクィナスは、「あるヨギの自叙伝」の19章 注釈でも登場するスコラ学の代表的神学者で聖者とされる方ですが、
この御方は12世紀に活躍したロンバルドゥスを師として仰いでいたと言われています。

 

聖トマスは尊敬していたロンバルドゥスの執筆した神学書である命題集第2巻「創造と罪」第24部2区分を取り上げ、第2区分の著述の中で「もし、実際のところ、罪が想いの快によって、長らく保たれてないなら・・(その罪)は些細なものである。もし、他方、考慮の快のうちに、長らく保たれているならば、たとえ、それを遂行しようとする意思がなかったとしてもその罪は重大である」という聖トマスご自身の見解を表明しています。(「ユリシーズ」大全 北村 富治 (著)p128から一部引用)

 

こういうのを引用して紹介すると、生理的潔癖すぎると揶揄されそうですが歴史的には、こういう分野に命を懸けて研究してきた方がいたということでご容赦ください。(;^_^A

 

そんでもって、この命題集の前後文脈から、これはマタイ伝5章28節から30節までのイエス・キリストの聖句と照応関係を踏まえた上での聖トマスのコメントと考えられます。

 

ゆえに、そういう善からぬことを想像(空想)することによって心の中に意図的に思い浮かべて、それを長々と楽しみ陰気な快楽的空想に耽るとかいうことをしないほうがよいという結論に達すると見ていますが、

 

それを薄めるのに、では一体全体どうしたらよいか?というと、可能性のある方法としては

 

陰気な快楽的妄想の力が増さないうちに断切する( 切り替える )ということ。
そのためには主祷文や天使祝詞を唇を一切動かすこともなく、秘かに心唱し、不意の劣情の想念に対し気を逸らす等の方法もあるかもしれません。

 

または、キリストの主祷文に限らず、宗派を問わず、十句観音経などを秘かに心唱し、陰気な快楽的妄想が、意識の流れの中で長く保たれ、力を帯びないように気をそらすという方法もあるのかもしれません。

 

なぜなら、観音経(法華経普門品)で説かれているなかに
若(も)し衆生ありて淫欲多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便(すなわ)ち欲を離るることを得んという記述があります。
ですので、淫欲が多いことに悩む方の場合でも常に観音を念じることを表明したお経である十句観音経に心を浸らせ、
意識の流れの中で、陰気な快楽的妄想が湧いても、さっと、逸らせばよいということ。それが力をもたないように十句観音経などを心唱して気を逸らせば、
徐々に薄められていくということも考えられるからです。

 

 

あるいは、天風哲人が仰るように欲は捨てられないなら、いっそのこと、根源(天風哲学で言うところの根本主体)を知るための欲を強くし誦句の研究をして、悦びを耕すことに向けるということも、対策としてあるのかもしれません。

 

さらに言うなら心を虚ろにしないように気を付け理想を意志して四六時中、理想念で心を充満させつつ地に足の着いた行為集中、注意集中のリアリズムの生活で昇華させるということも間接的に役立つ可能性があるのかもしれません。

 

何れにしろ、この件は天風哲人も扱ってない分野で、これだけでは不十分だと感じるので私も暗示の研究や祈りの研究など暗中模索、試行錯誤の状態でして
一応、この件は、あるヨギの自叙伝の著者のパラマハンサ・ヨガナンダ聖者ルートからも探求していますけど

 

 

そういうのまで、このページで書くのは今の段階では時期尚早で保留にしています。
なぜなら、私が探したものが正しいとは限らないし、万人に有効とは限らないからです。

 

 

 

以上、やや煮え切らない書き方になりましたが、最後に、結論をまとめると・・

 

内面の意識の流れ、マタイ福音書5章28節〜30節絡みの連想の取り締まりは、頼みの綱の天風哲人も明確な形で言及してないし、対策を提示してないので私も正直な本音、探求はしていても暗中模索状態ですが

 

少なくとも不貞を避けるという外面的なこと

 

これについては時代を問わず方位磁針が常に指し示す
不幸を避けるルール( 原則 )として避けたほうが良い。

 

 

相手の家庭の平凡な幸福を壊すことまで含まれてしまう
負の因果法則を動かす邪なことは未然に避けるのがよい。

 

 

「 性的不道徳を避ける 」のはユダヤ民族じゃなくっても別にできると思うし

 

(多数決で決まる類のものではないですが )
ヨーガの聖者( キングオブ聖者 )も、警告している。

 

なので不貞行為に新しい刺激を求めるのではなく

 

結婚相手に向けて小さなサプライズをする等で

 

新鮮さを保ったほうが善いんじゃないか?という考えです。

 

 

 

併せて内的訓練は、容易ではないけれども

 

 

( 歴史や世界最古の書物群から学んだ私見では )

 

大経営者や富豪、大作家etcになって得られる喜びよりも

 

性的不道徳を避ける( 危うい誘惑を避ける )というのを
確り守り通し自己成長することで得られる平凡な悦びのほうが

 

( 大富豪や著名な経営者などになれずとも )

 

本人の主観領域の感じ方において

 

より深い安心と高品質の新鮮な喜びを与えるのではないかと思うし
自己制御や、心の深い平安などの平凡な幸福に大きく寄与する可能性があると私は観ています。

 

 

天風哲人の口演を再現した「成功の実現」の視点からも
性的不道徳を避けたほうがよいというのを述べるなら

 

天風哲人は、「成功の実現」第4章 恬淡明朗 における表面意識の奥のお掃除( 観念要素の更改 )をメインに扱った章p102において
心が人生を感じる感じ方でそのまま極楽にもなり、地獄にもなる」と述べています。

 

要するに、幸福は、客観的というより、多分に主観的なものが多勢を占めるという事。

 

それを裏付けるかのように、次のようにコメントしています。

 

心に極楽を感じせしめて生きようとするには、心のなかを掃除しなければだめなんです。
クリーニングしなきゃだめなんですよ。(中略)
そうしないかぎりは、どんなに学問をしようが、どんなに幸い出世して、名誉、地位を高めてみても、
またお金ができてみても、はたから見ると幸福そうには見えるかもしれないけれども、本人自身はちっとも幸福じゃありませんよ。

 

(ここまで)

 

そうして表面意識の奥の潜在意識(心の座敷)のお手入れを熱心にするように促し感じ方を司る感応性能を立て直し
心を取り扱う意志の力を渙発できるようにすることを奨めてますよね。

 

心というのは、実に扱いが難しく現実と願望が心内で往来したり
事実と虚構が心内を駆け巡ったりもします。
かと思えば現在、過去、未来が心の中で行き巡って次元を異にする出来事が同じ時間と空間の中で混在したりもする事だって起こりえます。

 

そういう、いわば´じゃじゃ馬´みたいな厄介な性質を持っており、まことに扱いにくいのが心と言う事も出来ます。

 

その心を、確り取り締まって

 

この心に極楽を感じせしめるのに重要な働きをする心の持つ「 感応性能 」という機能・・

 

この感応性能という心の機能は、私の言葉で言うなら日々にワクワクする新鮮さと微笑ましさを感じせしめる機能と言う事も出来ると私は思っていますが

 

もし、冒頭に質問為さった方のように万一不貞行為に心を燃やし淫欲の奴隷になったら、恐らくは

 

( 潜在意識領が穢され )

 

感応性能の働きが、じわじわ、おかしくなることが理論上、予想されます。

 

不倫に身を焦がし浸っている間の一時的、刹那にはよくても

 

どんなに学問をしようが、どんなに幸い出世して、名誉、地位を高めてみても、
またお金ができてみても、はたから見ると幸福そうには見えるかもしれないけれども、本人自身はちっとも幸福じゃない状態に陥る可能性が高いのではないかと私は見ています。
( はっと我に返った時に、慚愧の念に駆られると申したらよいのか・・)

 

 

これは古代イスラエル王国第三代王ソロモンの事跡からも推定できます。

 

日本人の統計からバイブルを通しで、何十回も読むほうが珍しいと思うので、

 

一般的に膾炙されているソロモンの事跡をバイブルの視点を併せて、かみ砕いて紹介しますと

 

 

ソロモンは、紀元前10世紀の時代圏に生きた方ですが、生まれながらに王でして不自由なことは何一つない身分で生を享けました。

 

それだけに止まらず´ソロモンの知恵´という言葉が歴史的に流布しているくらい
「知恵の王」と称賛され賢明な判断力を有していたという記録も残っています。

 

そのことを裏付けるように国の大経営者として通商貿易振興に手腕を振るい経済を発展させ
首都のエルサレムに父ダビデの悲願であった神殿や宮殿建設も行いました。
いわゆる「ソロモンの栄華」と呼ばれる大繁栄を成し遂げたことで有名です。
更にはソロモンの雅歌を遺すなど大作詞家としても卓越した才能がありました。

 

 

 

歴史上の人物の中で、これほど財や才に恵まれて生まれた方は稀有でしょう。
実際に、その卓越した才能を発揮し大経営者として国を繁栄させ栄華を誇り
多くの家臣から、かしずかれ崇められてもいます。
心理学的には当の本人の支配欲求も満たしていたと言えるでしょう。

 

常人が体験できないことを体験し、あらゆる欲を満たし方と言えるのではないかと。

 

こういう方は稀有と言えるのではないでしょうか。

 

まさに天風哲人が、指摘する

 

学問にも卓越し出世もし名誉、地位も申し分ない
またお金も唸るほどだったでしょう。王様ですから。

 

 

しかし、そのソロモン王は、たった一つのこと

 

すなわち

 

 

「 性的不道徳を避ける 」という原則を守れませんでした。

 

諸国の王や貴族の娘を700人も妻にし
側室を300人も集め淪落したとされています。(列王記11章3節から引用)

 

その結果

 

その生涯を悔いるかのように

 

晩年に「 なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい 」と慨嘆した詩を遺しています。

 

コヘレトの言葉(伝道の書) 1章1〜2節
( ※近年の研究では、コへレトの言葉は、ソロモン執筆ではないという異説もありますが
ソロモン作というのが主流です。なぜならコヘレトの言葉の冒頭に、エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。と明記されていますから )

 

以上のことから

 

不貞行為で性的奴隷に陥ることは、知覚の窓であり
どこがどうということもなく日々に新鮮さや微笑ましさを感じさせる感応性能を損ねていくという可能性が示唆されます。

 

 

 

 

また

 

内的鍛錬は決して容易な事ではないですが

 

 

大経営者、大作家になる喜びより

 

性的不道徳を避ける( 危うい誘惑を避ける )というのを心がけ
守り通し自己成長軌道に乗せることで得られる喜びのほうが、当の本人の主観において深い安心や喜びを与えるというのも
あながち絵空事として無視できない・・こういう聖典を分析することである程度までは推測可能と言えるのではないでしょうか?

 

 

これらのことから、私たちのような、ごく普通の一般人でも、難しいこととはいえ、積極的な意味でも、性的不道徳を避けるほうがよいというのが浮かび上がってくるのではないかと私は考えているし

 

 

すでに性的奴隷状態に陥ってるなら、自分自身のためにも、あるいは
血脈を受けた子孫への負(不幸 )の連鎖の鎖を少しでも緩めるためにも
幾ばくか痛みを伴っても様々なやり方で外面的な清算だけでなく
今後は、誘惑に陥らない平凡で丁寧な生活を心がける。

 

可能なら内面的にも・・少しずつでもよいので清算して心を尊く保つことに欲を向け心を燃やすことが妥当ではないかと私は考えています。