今回紹介する逸話は、相曾誠治さんが執筆した超古神道著作集第2巻からの引用を膨らませた内容です。
なお、相曾誠治さんの本はamazonや大手の一般書店では扱っていません。
山雅房というところで扱っています。
山雅房 オンラインストア

 

(以下 相曾誠治 超古神道著作集 第2巻p85〜p88から、一部割愛、抜粋引用 )

 

 

江戸時代、文化11年(1814)のことです。
ある貧乏な青年がへとへとになって伊勢神宮に参拝しました。
数日間、なにも食べていません。
五十鈴川の禊場で首を水中に突っ込まんばかりになって水をガブガブ飲みます。
背後でじっと見ていた気品ある老人が見るに見かねて声をかけました。
「もしもし、そこの若いお武家様。見ればたいそう空腹のようですが、食事を召し上がってないのですか?」
「はい。もう数日来、麦飯一つ食べておりません」
青年の人相を見て、今は落ちぶれているがやがて一世に名をとどろかす大変な器であると翁は見抜きます。
「むさ苦しい所ですが、わたしの家へついてきなさい」
助けてくれたおじいさんは水野南北(1757〜1834)という有名な観相師です。
当時、観相では日本一といわれたかたで、京都のお屋敷には門人が三千人ほど出入りしていました。
助けられた青年が井上正鐵(1790〜1849)という二十代半ばの武士です。

 

水野が井上に教えたなかに、

 

「 早旦、日拝百日せよ。病者おのずから回復し、貧者自ら富者になるべし 」

 

という古い伝えがあります。

 

どんな病人でも早朝、お日様を仰ぐことを百日間続けたなら、必ず病気が回復して健康になる。赤貧洗うような貧乏人でもきっと金持ちになれるという意味です。
この教えを井上青年は実行しました。
一説によりますと、京都にいるとき、水野南北に紹介されて井上は吉田家にも入門します。

 

水野南北に1年くらい師事した後、井上は江戸に帰り、易と医術を生業にします。
1833年、井上が42歳の時です。夢の中に神の使いが現れます。
それがきっかけになり、5年後、京都の神祇伯白川家に入門し、神拝式許状を得て神官として身を立てるようになりました。井上が51歳の時です。
神祇伯白川家は当時、神道の最高権威としてあがめられていました。
神主になるにはここの免許が必要です。
日本一の観相家が下した判断ですから間違いありません。
めでたく公許の神官になった井上は布教でたいへんな勢力を得ます。

 

ただ、おおぜいの信者が出入りするのを見た幕府は、陰謀を企てているのではないかと
警戒しだしました。由井正雪の再来にならないうちに早く処分してしまえということになり、身柄を拘束して三宅島に送ります。
当時、三宅島は徳川幕府の天領で、流刑場にもなっていました。
年2回、夜になると信者は食料や必需品を船に積み込み、たいまつをたいて三宅島まで井上を慰問に出かけました。
たまさか慰問に行った信者がしけで帰れないことがあり、島に住み着く者も出てきます。
だんだん数が増え、とうとう三宅島の住人になってしまいます。
井上はもともとの島民にも教化活動を展開しました。
( 中略 )
ともあれ、赦免になった罪人が江戸に帰ってきて島の消息を伝えます。
井上たちにいろいろな奇跡が起こったのは事実です。
もろもろの事情で一部割愛した形の抜粋引用をしました。
(ここまで)

 

 

ここで、この書を執筆した相曾誠治氏について簡単にコメントしますと、、
相曾翁は合併前の静岡県篠原町で町長を為さっていた方です。

 

氏を、ほんの少しだけ有名にしたのは佐藤愛子著「私の遺言」でしょう。

 

佐藤女史は、著名な作家でして、私から言わせると、そんな方がよく、この本を書けたな・・
書くのに勇気がいっただろう・・というのが「私の遺言」という本を一読して抱いた私の第一印象です。

 

この本によると佐藤女史は北海道に山荘を建てたときから超常現象に悩まされたとか。

 

屋根の上の足音、ラップ音、家具の移動をともなう様々な現象、激しい頭痛。

 

女史は、これらの現象に悩み自己解決も難しかったため、あらゆる霊能者に相談して
その原因を探り30年近くに渡って、その解決に向け奮闘したと言います。

 

佐藤女史が相談依頼した方のなかにはTVでもお馴染みで有名な霊能者のお一人である江原氏や三輪氏も含まれています。
( 20代の頃の江原氏の逸話まで出てきて興味深いものでした )

 

 

両者も、そういった不可解な現象および病院に行っても治らない辛い体調を緩和することに力を尽くしてくれたそうです。

 

ですが、結局最後に頼って解決への道筋をつけてくれたのが、世間一般には、こういう分野で全く無名の相曾氏だったようです。

 

そういった一連の顛末を含めて「私の遺言」に詳しく書かれていました。

 

 

 

このように実務家で( 神主さんとしての免状なども別に取得はしてないものの )神道家の顔も持つ相曾氏のことは、ごく一部の方を除いて殆ど知られていませんでした。

 

ですが、山雅房から出された、これらのシリ-ズ本は、相曾氏の神道家の一面
( どういう生き方をし、どんな体験をして、どういう修練をしてきたか? )を垣間見ることのできる書です。

 

 

尤も、こういう分野については疑念を抱く方も多いかもしれません。

 

「そういうのは荒唐無稽なこと!嘘八百!信じるのは低脳で愚かな人間!」
と完全否定するのもありかと思います。

 

早大の大槻義彦名誉教授のようなスタンスでも、
幸せに生きられたら、それでいいのじゃないかと。

 

尤も私は、この生き方は、正直奨めたくありませんけど。

 

とは言え、仮に、こういう分野に強い探求心があって、この書を読んだとしても

 

( お読みいただければわかるように )この2冊は、濃い内容ですけど、かなり人を選ぶ本でしょう。
相曾翁は、国士(烈士)と申したらよいのか、卓越した御方だと私は思いましたが
あまりにも古神道に振り切った論調なので
バイブルや仏典などに取り組んできた方等は読んだら私のように複雑な哀しい心境になる方もいるかもしれません。

 

私の場合は相曾翁の誠実で直向きなお人柄が垣間見えたから、何とか読みましたけど、正直、きつかったです。

 

とは言え例によって、これらの書にも私は等閑的に・・・
また、よいとこは取り入れようというスタンスで向き合っています。

 

そういう余談はさておき、

 

相曾氏が執筆した著書の中で、引用した内容について補足説明しますと

 

先ず井上青年を助けた老人は水野南北という江戸時代後期に活躍した観相師です。
食を慎むことや陰徳を積むことを門人に勧め、自らも生涯実践し続けました。

 

水野翁の略歴を簡単に述べるなら、

 

(翁の場合、 まだ幼児の時に両親を失い孤児となったのも幾ばくか関係してるかと思いますが)

 

10歳の頃から盗癖があり酒癖も悪く刃傷沙汰を繰り返し入牢も度々。
どうしようもない荒んだ生活で二十代前半には易者から剣難の相を指摘され
余命もあと1年との宣告を受けたそうです。

 

余命宣告までされた水野青年(当時)はショックを受け、助かりたい一心で
密教僧(一説には禅僧)に会い助言を請いました。

 

すると、僧侶は水野青年に陰徳を積むことや慎ましい食事を励行するように助言をしたそうです。

 

以降、水野青年は、助言を直向きに実践したとのこと。

 

そうして1年ほど愚直に続けた後に、再び同じ易者に占ってもらったところ
(命運が変わって)「死相が消えている」。と、易者に言わしめたそうです。

 

水野青年は、その後も研鑽を積むことで悪循環のスパイラル状態から徐々に抜け出し、
諸国行脚しながら人相学の研鑽を積み、少しずつ占いの精度を上げ
やがては「万に一つの誤りも無し」と言われるようになったそうです。

 

ただ水野南北と言えば、こういうのに詳しい方なら

 

人相学に「食事の量」と「食べ方」を織り込んで体系化した方。

 

´粗食・小食、腹7分目を熱心に薦めた方´というイメージが強いのではないかと思います。

 

翁が日拝も薦めていたことはあまり知られていません。
しかし修身実験録( 水野南北著 )という書の12コマ目にも

 

 

修身実験録( 水野南北著 )

 

「 病身の人は日々かならず平旦に起き出で、日出に向ひて虚心平氣に日拝すべし。
然るときは身体健かにして長寿を得るなり。これ氣を養ふの仙法にして、無病長命になること疑なし。われ二十五歳の時、行脚して奥州に至り、金華山の辺りにおいて異人にこの仙法を学びうけしより、終に壽を保つことを得たり。爾来病身の人にこれを授けてためしみるに、一々その験あらざるはなし。故にここにさとし置くなり。」

 

と、しっかり記されています。

 

このことから開運や病から気持ちを立て直す方法の一つとして水野南北翁が無邪気な日拝を薦めていたのは
間違いないでしょう。

 

実際に、南北翁の言葉を信じて実践し続けた井上青年(当時)は、
紆余曲折を経たものの徐々に運が開かれ、その都度出会いがあって飛躍を遂げています。

 

( 後年、幕府に迫害されましたが )

 

餓死寸前で何らの希望もない程に落ちぶれていたことを鑑みれば

 

水野南北翁に出会って以降は、門人たちにも慕われ
総じて充実した人生を送ることが出来たと言えるのではないでしょうか?

 

では、1週間近く麦飯一つすら食べれない位落ちぶれていた境涯から抜け出し
新たな世界が広がる、きっかけになったのは何か?と申しますと・・

 

水野翁に出会ったことも、さることながら、助言を素直に受け容れ
「100日間休まずの自らを投げ出した無邪気な日拝を実践した」
というのが井上青年(当時)をして新たな日常に参入せしめた可能性は高いでしょう。
( その後に山あり谷ありあったとはいえ )

 

 

ところで100日間休まずの日拝については、私もささやかな実際体験があります。

 

私の場合は、意識化されない(意識に上る前の)深いところの印象材料の汚れを取り
過去の自分よりも少しでも優れた自らを目指すための自己陶冶をしていく方法の一つとして

 

以下のページを2009年6月に公開し、サイト読者に薦める以前から
日拝の実践研究は継続的(諸般の事情で断続的)にやっています。
旭日光による観念要素の更改法

 

実践方法は21日間を一区切りで完遂したら、少し間をおいて、また実践・・
という形で、これまでに何十回も上記の方法を実践していますが
100日間の連続日拝行の実践というのは、意識して実践したことはありませんでした。

 

そこで先の事実を知って改めて100日連続日拝行というのを実践したところ
奇妙なことに100日を達成した翌日に、有難いことに、かなりまとまった額の臨時収入を得ました。

 

( もちろん仕事上の様々な努力はしてはいましたが、
誰でも仕事上の努力はするでしょう
 )

 

< これまでのやり方を変えて21日間実践したら間を空けるのではなく、
そのまま次の21日間に取り組む・・21日間の日拝行が終わったら間を置かずに次へ・・という具合に記録をつけながら連続実践し
100日目というのは、正直、そこまで強い意識はなく無頓着だったのですが、

 

なぜかまとまった臨時収入を得た日と実践記録を振り返って照らし合わせたところ、
あれ?!そういえば・・と後で気づいて驚いたというのが事の顛末になります >

 

私が実際にやったのは、朝目覚めたら寝床で断言法で暗示を施し
曇天だろうが、雨だろうが、すぐにベランダに出て瞑目、低頭して
瞑目したまま、お日様を仰ぎつつ大祓祝詞を(瞑目し囁きのような黙唱で)高速奏上し、
後に深いプラナヤマ呼吸で陽気を有難く頂く行法を続けただけでして、

 

これを100日間、淡々と継続したというのが実践内容になります。

 

※最初の頃は、日拝の際に祝詞奏上などはしてなかったのですが、
脳力開発等で等閑的に取り組んだというのが、実行した理由です。

 

それでもって、実践に際して記録を取りながら、やっていったのですが
実践継続1週間後ではなく10日後でもなく40日後でも50日後でも120日後でもなく
100日を終えた翌日に計ったように、まとまった額の臨時収入が入ってきたことに
正直驚きました。

 

非科学的で、そういうのは、そもそも本質から逸れたオマケみたいなものかもしれません。

 

こういうささやかなオマケ的な体験をきっかけにして、より本質的なことに向かうというのが本筋だとは思いますが、
なにかあるのではないか?と思うようになっています。

 

なお、読者の中には、学生時代から数えるとバイブルを通しで何十回
(100回越えてるかもしれず未だに研究対象にしている)も読んで、
挙句バイブルが台形になってしまったくらい探究した背景を持つ私みたいな人間が
日拝を薦めることに違和感を感じる人もいるかもしれません。

 

( ※バイブルを含む聖典研究(潜在意識意を汚し運を落とす行為) )

 

バイブルに照らしたら日拝( お日様を拝する )も偶像崇拝に当たるというのが真っ先に挙げられるでしょう。
正直なとこ私も抵抗が全くなかったわけではありません。( 実際に相当に抵抗がありました )

 

この抵抗を払拭してくれたのは「 あるヨギの自叙伝 」p495です。
※メルカリの中古本でも値段があまり下がらないですね。
私は1冊目が、ボロボロになり過ぎて新しいものを、もう1冊買っています。

 

同本については、「成功の実現」等の口述書に出会い、真剣に実践をし、いろんな実績が出て、
何かもう、これでいいのでは・・と思っていた頃に出会った書でして

 

読むことで、「成功とは何だろう?と根本から考え直すきっかけになった本でして、
内的探究や自己訓練についても、いや、これではいけない・・・」。と心を発奮させるきっかけになった書でもあります。

 

 

ライフワークの一つとして比較研究もしていますが

 

 

この本の該当ページでインドのヨギのパラマハンサ・ヨガナンダ聖者が日の出の礼拝をしている記述を見つけたのが
バイブルに照らすと、かなり抵抗がある日拝を頓着なく実践をするようになったきっかけになります。

 

聖者と称されていた植物学者のル−サ−・バ-バンクが深く敬愛し
聖者だったガンジーまでもが20歳以上年下だったのに師事するような、聖者中の聖者で・・

 

バイブルの難解な比喩をも生活体験で、あっさり解き明かしてるような方も日拝に類したことを為さっている。

 

してみれば日拝の外面的行為だけ見て、「 やれ偶像崇拝だ!」などと批判し拘りを持つ必要はないんじゃないのか?

 

そういう拘りを持たず「象徴的な観方」をして素朴に実践すればいいんじゃないのか・・と思うに至ったというのもあります。

 

 

併せて想うための原料を表面意識に提供している潜在意識の印象貯蔵庫自体を浄化する
かつ難しいとされる自己陶冶を為していく一環として日拝も研究しながら続けているということになります。

 

 

ここにも書いたように
実践継続の結果、情け深い思いやりが出やすくなるとか
楽しく軽やかな気分が持続しやすくなって生活事実として気分が落ち着きやすい等、

 

節目をつけて続けた結果、当の本人にとって、そういった心持ちが保たれやすいという生活事実があれば、続けていけばよいのでは?という大らかなスタンスです。

 

PS

 

私も、たまに難しい相談を受けることがありますが、

 

自己解決する力をつける、その実際方法を教えてやるというのが最も素晴らしいと思っています。

 

天風哲人(の方法)が凄いのは、
生きとし生ける森羅万象の生命を化育し活かす力(Vril)の受け入れを
( 無意識レベルで遮っている障礙を取り除く方法を教え気づかせ
実践を促すことで )VRILの受け入れを少しずつ豊富にし

 

その力と自身の主体的取り組みの合力で自力の生命生存力を高めて積極前向きに命を燃やす方法を説いてるとこでしょう。

 

実際に本物の霊能者とされる方がいて事実として依頼者の浄霊というのことが仮にできたとしても
一時的な解決にしかならず依頼者を依存させてしまうでしょう。

 

自分(自己)で自分を助ける方法と言ったらよいのか。
自らの取り組みで心の力を高めて自己解決できる方法を説いてあげるほうが、より素晴らしいのではないでしょうか?